第51話

文字数 1,918文字

 その後の話でホールの扉をくぐったキャサリンと、入りはしたがすぐ出て行ったツバキは、合流するまでお互いを見ていないらしい。つまり、ツバキはホールを出たあと、俺たちがトイレでエメラを捕まえ……保護していた頃、彼女は映写室に向かい、その後で紅平たちと合流した可能性もある。
 もしくはツバキがホールを出て行ったあと、キャサリンはこっそりと抜け出したかもしれない。それとも紅平とサムエルが共犯で、彼女たちがホールに入っている間に犯行に及び、口裏を合わせているとも考えられる。
 つまり、エメラ探しは一時間程度だったが、各々の行動は殆ど把握できていない。四人のうちの誰かが嘘の証言をしている可能性は否定できないのだ。
 隙を見て映写室に行くこと自体は誰にでも可能だったが、だといってイコール犯人とは言えず、限りなくクロに近いグレーであることに間違いはない。

 考えれば溝吉だって犯行の可能性が無いとは言い切れない。東條たちがエメラを連れて控え室に戻った時、来栖沢栄太は布団で眠っていた。その隙に部屋を抜け出して映写室に向かったと言えなくもない。まさか溝吉と来栖沢の二人が共犯とは思えないが、アリバイを証明できない時点で、他の四人と立場は同等なのである。
 だが一方で大沼の犯行もまだ完全に否定できない。疑いたくはないが、状況から考えれば彼の犯行である可能性が最も高いことに揺るぎはない。
 ――仮に大沼の犯行だったとしても、それが正当防衛だったとしたらどうだろうか? 
 恐怖にかられた光江が、先手必勝とばかりに大沼を金づちで襲い、反撃に出た大沼が思わず刺してしまったとしよう。彼はその時、意識がもうろうとして、自分のしでかした犯行の記憶がないのかもしれない。仮に夫人を刺したところで、必ずしも殺人だとはいえないのである。

「フギャー!」
 爪を立てたらしく、エメラは腕を押さえてもだえるロシア人から逃げるように駆け出すと、明日香の胸に飛び込んだ。なかなか気難しいロシアンブルーである。
 いきり立ったサムエルは大沼を探すといったニュアンスのジェスチャーを示し、控え室を出た。それに紅平も続く。テニスプレイヤーのサムエルはともかく、紅平の方は七十歳を超えている割にフットワークが軽く、驚くほど活動的だ。日頃から積極的に体を動かしているものと思われる。怒りに震えながらも、腰を押さえつつ布団に潜り込んでいる来栖沢医師とは雲泥の差だ。
 サムエルたちとほぼ入れ替わるかたちで、今度は溝吉が入ってきた。戻るのにやたら時間がかかったのは、おそらく映写室のあちこちをスマートフォンで撮影していたに違いない。
 彼は部屋中に漂う淀んだ空気から、すべてを察したらしく――、
「……まあ、いずれこうなることは予想しとったし、みんなもあの大学生には気をつけなはれや!」溝吉も大沼犯人説を信じて疑わないようだ。
「まだ大沼くんが犯人だと決まったわけじゃないでしょう? そういうあなたこそ怪しいわ」
 ツバキは睨みを利かせながら溝吉を責め立てる。東條としては、いっそのこと溝吉こそが犯人であってほしいとさえ思えた。
「あのな、ワイが()ったわけないやろ!? 考えてもみい。光江はんはナイフで刺し殺されたんやで? しかも大沼のナイフでや。ワイが犯人やったら、どないしてナイフを手に入れたちゅうんや?」そこで溝吉の眼の色が変わり、柏手を打った。「……判った。ツバキ、お前や! きっと色仕掛けで誘惑してナイフを手に入れたんやろ! 綺麗な顔してえげつない奴やな」
 負けずとツバキも反論した。「あのね。あんたは知らないでしょうけど、大沼君は誰かに殴られて気絶していたのよ。つまり誰だってナイフを使うことはできた。もちろんあんたにもね」
「なんやと! もう一遍言うてみ!!」
「ええ! 何度でも言ってやるわよ!!」
 いがみ合う二人の口論が続いた。

 数分後、サムエルが戻って来た。一緒のはずの和菓子職人である紅平の姿はない。
 サムエルは口を動かし、何かを伝えようとしてるが、相変わらず何を言っているのか判らない。
 キャサリンを介して翻訳すると、どうやら大沼はトイレの個室に閉じこもって無実を訴えているようだった。サムエルは完全に大沼を犯人と決めつけているらしく、すさまじい剣幕で扉を叩いたが、遂に出てこなかったらしい。
 当然だ。サムエルのような巨漢の筋肉男がロシア語で扉を叩きながら喚いていたら、大沼ならずとも震え上がるだろう。紅平の姿が無いのは、トイレに残り、大沼青年を見張っていると考えられた。
 溝吉とツバキのののしり合いはいつの間にか終わっていた。互いに視線を合わせようとはせず、キャサリンの話に耳を傾けていた。
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