第49話

文字数 1,720文字


      * * *

 騒動に反応したらしく、溝吉が目を覚ます。
「どないしたんや、血相変えて。エメラっちゅうドラ猫は見つかったんかいな。今度は逃げられんよう、これで首輪を結んでやったらええんちゃうか?」と、ロープを持ち上げた。
 明日香は「それどころではありません」と、東條が来栖沢にしたものと同じ説明を繰り返した。
 話を終えた途端、「そら、えらいこっちゃ」溝吉は控室を飛び出した。それはきっと光江や腰の悪い来栖沢を心配してではなく、第二の殺人というショッキングな事件を聞いたためなのだろう。ある意味マスコミの鏡といえた。

 大沼を見ていると、いつの間にか寝息を立てていた。すっかり寝入っているのを確認するとスマートフォンを開き、ふうとため息をつく。
 そしてスマートフォンを閉じた明日香は、おもむろに水槽へ足を向けた……。

      * * *

「……なんということだ……」
 妻の亡骸を前にすると、来栖沢は絶句を漏らした。その眼は死んだ魚のように濁っていて、心境が東條の胸に痛いほど伝わってくる。だが、今は彼にしかできない仕事をやってもらうしかない。
 両手を合わせて深々と黙とうを捧げると、悲しみに暮れる歯科医は、震える手で検死を始めた。
 それは残酷な行為といえた。
 長年連れ添ってきたであろう、かけがえのない伴侶の遺体を、自らの手で調べねばならないのだ。もし東條が同じ立場に立たされたとしたら、とても耐えきれないだろう。
 それでも彼は唇を噛みしめながら、黙々と作業を続けている。東條の目にはまるで壊れたマネキンを無造作にチェックしているように映った。

 しばらくすると溝吉が到着した。さすがの彼も一瞬だけ驚愕の声を上げるが、すぐに気を取り直したのか、スマートフォンで死体を撮影し始めた。シャッター音がやたらと耳に障り、東條は眉をひそめずにはいられなかった。だが、来栖沢は気丈にも作業を続け、失礼極まりないテレビマンの存在など気にもしていないようだった。
「……あんたの拾ったナイフはあるかね?」
 淡々と手のひらを差し出し、東條に無言の目を向けた来栖沢。それは傷心を隠し、敢えて事務的な口調にしているようだった。
 ハンカチに包んだサバイバルナイフを渡すと、嘗め回すように凝視した後で光江の傷跡にあてた。何もできないシステムエンジニアは固唾を呑んで見守るしかなかった。

 彼の答えは東條の推測と同じだった。凶器はこのサバイバルナイフと断定されたのだ。
「……即死で間違いはない。一撃で心臓を貫いておる」
「それで、死亡時間は判明しましたか」
 壁の時計を見た来栖沢は、さもこともなげに言った。
「心肺停止は一時間ほど前だ。今は二十二時だから、刺された時刻は二十一時前後となる」
 一時間前といえば、東條は明日香と一緒にトイレでエメラを保護していた頃だ。
「ワイはちゃうで」溝吉が割って入る。「知っての通りワイの道具はこれや。そんな物騒なものなんて、見たこともあらへんわ」と、ロープをこれ見よがしに掲げた。
 ――物騒なものと言いながら、ほんの数時間前まではマシンガンやロケットランチャーを欲しがっていたくせに。
 そっちの方がよっぽど物騒だと、東條は眉間にシワを寄せずにはいられなかった。
 だからと言って溝吉がシロとは限らない。
 大沼の話を信じるとすれば、彼は誰かに後頭部を殴られて気絶したという。それが溝吉でないとは言い切れない。大沼を気絶させたあと、腰のナイフを奪い、来栖沢光江を刺し殺したとすれば溝吉にも犯行は充分可能だ。
 むしろ問題なのは光江の方だ。これも大沼の証言通りだとすると、この映写室に大沼が入って来た時、先に来ていたはずの彼女がいなかっというのはおかしい。
 光江も気絶させられて棚の奥にでも隠されていたのだろうか? しかし来栖沢の検死によると、胸の刺し傷以外に外傷はないという。大沼が気を失っている間に、何が起こったのだろうか?
 すると来栖沢は鬼気迫る顔で、東條のもっとも恐れていた質問を放った。
「……このナイフは誰のものだ……?」
 これ以上隠し立ては出来ず、大沼に与えられた武器である事実を正直に話した。もちろん溝吉の容疑を晴らすためのものではない。
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