第84話

文字数 1,880文字


      * * *

 ベンチに戻り、東條は再び横になった。
 興奮で眠れないものと思っていたが、まぶたを下ろした途端に夢の世界へ迷い込んでいく。

 濃霧漂うまどろみの中、一糸まとわぬ明日香の姿が浮かび上がる。彼女は愛らしい笑顔を浮かべて甘い吐息を漏らしていた。感情を抑えきれない東條は、思い切り地面を蹴り、彼女の元へ飛び込んでいく。そして唇を重ねると……彼女の顔はツバキに変わっていた。
 狼狽する東條はその場を飛びのき、出口を求めて薄暗い空間を彷徨(さまよ)った。しかし追ってくるツバキに左腕を掴まれると、その手を突き飛ばす。打ち所が悪かったのか、ツバキはぐったりと四つん這いのまま一向に動く気配を見せないでいる。
「ごめん、俺が悪かった。大丈夫かい?」と、ツバキの肩を優しく掴む。
 だが、頭を上げたその顔は……
「……あなたはいつもそうだったわね……」あいつは憎悪の眼で睨みつけた。
 かける言葉が見つからない。
 気が付けば遠くから聞きなれた幼き泣き声も微かにこだまする。重圧に押しつぶされそうになった東條は無我夢中で走り出し、崖から転落した。
「うわああああ!」

 ドスン! 

 ベンチから転げ落ちた。
 悪夢から目覚めた東條は全身から汗が噴き出し、荒い息が止まらない。休息を取っていたはずが、まるでフルマラソンを走り終えた直後のような疲労感で、とにかく喉がカラカラだった。
 控え室から持ってきたミネラルウォーターに手を伸ばす。既に半分以下になっていて、それを一気に飲み干しながら時計に眼を向けると午前九時二十一分だった。あと二時間半ほどですべてが終わる……はずだ。

 東條はベンチに座ったままあくびを噛み殺し、ひとブロック先で横になっている溝吉に声を掛けた。
「溝吉さん。そろそろ起きませんか?」
 だが彼は反応を見せない。よほど疲労が蓄積しているのだろうが、かといってこのまま寝かせておくわけにもいかないだろう。
 ベンチから立ち上がると、東條はまだ眠りから覚めない溝吉の肩を軽く揺すった。
「さあ、起きましょう。寝ている場合じゃ……」
 冷たい油汗が流れた。この二日間で六体もの亡骸を目の当たりにしてきただけに、彼が睡眠を(さまよ)っていないという直感が脳天を貫いた。
 それでも何かの間違いだと、すがるような気持ちで肩を揺すってみる。と、溝吉の右腕がだらんと力なく床に垂れ下がった。髪の毛の一部が赤く染まり、傷がいくつもみえる。ベンチの下に目を向けると、床に赤い液体が滴り落ち、血だまりができていた。
 溝吉は息をしていなかった。
 来栖沢栄太医師のいない今となっては、検死はもう望めないが、血の量からして頭部にある複数の傷が死因とみられる。
 おそらく棒のような物で何度も殴られたのは間違いない。だが、警棒は金庫に入っているはずだからすぐさま候補から外した。
 ――他に棒状の凶器になるようなものはあるのだろうか?
 東條は控え室に向かった。
 来栖沢が杖として使用していた丸い木の棒が頭に浮かんだからだからだ。

 扉をノックするも返事が来ない。
 悪い予感がどんどん広がっていく。
 たまらずノブに手をかけて扉を引き開けると中に飛び込んだ。
 部屋の中央付近にうつ伏せで倒れている明日香を見つけるなり、靴を履いたまま畳に駆け上がると、明日香の身体を揺らす。
「明日香!」
 溝吉の件があった直後だけに最悪の事態を想定した。が、肌に触れた瞬間、温もりが感じられ安堵を憶えた。
「……ううっ……。……と、東條さん……」
 意識の戻った明日香は声を絞り出すと、苦しそうに咳き込んだ。大丈夫かと背中をさすろうとした瞬間、彼女はいきなり抱き着き涙声を上げた。
「……私、誰かに襲われたの……昨夜あなたが出て行ったあと、何だか眠れなくて……それで気を紛らわせるためにテレビをつけようとしたの……そうしたらいきなり首の後ろに激痛が走って……」
 東條は「ちょっと見せて」と抱きしめた手を放し、首周りを観察すると、後部にミミズ腫れのような火傷の跡があった。何か熱せられた鉄のようなものを押し当てられたに違いない。
「まだ痛むか?」
 首元を両手でさすりながら、明日香は小声で「まだ少し痛むけど大丈夫よ」と、東條を安心させた。だが、それも一瞬だけで、明日香は眉間にしわを寄せながら、苦痛の表情を浮かべていた。
「襲われたとき、どんな感じだった?」
「……はっきりとは覚えていないんだけど、気配から想像すると男性じゃなかった気がする」
 ――男性じゃない? 現在生き残っているのは東條と明日香以外では二人しかいない。もし、明日香の言う通りだとすると……!
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