第88話 第八章 完

文字数 2,324文字

 東條はロビーのデジタル時計を見た。十時三十二分だった。終了まであと一時間半である。
 明日香との関係がこじれたままであっても、せめて一緒に正午を迎えたいという思いに駆られた。たとえ明日香が殺人鬼だったとしても、彼女になら殺されても構わない。万が一、ふたり揃ってここから脱出できたならば、賞金は全て明日香に与えても良いとさえ思えた。
 そんな願望が芽生えてくると、途端に勇気が湧いてきた。

 とっくに消えた吸殻を投げ捨てて、東條は控え室に戻ろうと足を向ける。だが、さっきの喧嘩が頭をよぎると急に意気消沈になり、足がすくむ。
 しばらくロビーを行ったり来たりしていたが、溜息を吐きながらとうとうベンチに座り込んでしまった。
 行き場のない東條は、フラフラと立ち上がると、漫然とシアターホールの扉に手をかける。別に用事がある訳ではないが、横なりたい一心で暗幕のベッドを求めたのかもしれない。
 電波を確認しようと扉を押しながらスマートフォンのスイッチを入れるが、バッテリーは完全に尽きたようで、画面は黒いままだった。
 ポケットにしまおうとして手が滑り、扉の前に落としてしまう。
「やれやれ、ついてないな」
 腰を落としてスマートフォンに手を伸ばすと、扉の床面ギリギリのところに、どす黒い斑点を捉えた。床に這いつくばり手で触ってみると、それは血痕だった。
 ――どうしてこんなところに?
 周辺の床にも血痕がないか目を凝らしていると……。
「あらあら、東條さん。そんなところでなにしているの?」首を捻ると、スクリーンの裏からツバキが歩み出てきたところだった。「昨夜はお楽しみだったみたいね」腕を組みながら含み笑いをみせた。その表情は昨日にも増して妖艶な光を放っている。
「どうしてそれを……まさか、覗いていたのか?」昨夜の明日香との絡みを指摘され、東條は動揺を隠せない。
「そんなことしないわよ。私だって溝吉さんとアレだったんだし。……こっちが終わってからひと眠りしようと控え室に戻ろうとしたんだけど、中からイヤらしい声が聞こえてきたんで遠慮したのよ。感謝して欲しいくらいだわ」
 ――まさか明日香との行為を聞かれていたとは! 
 東條は恥ずかしさのあまり体中が熱くなり、とっさに顔を背けた。だが、そこでふと疑問を持った。ツバキはなぜ、一向に溝吉やサムエルが殺された話題に触れてこないのか? まさか、二人が殺された件を知らないのだろうか? そんなはずはない。犯人はツバキしかいないはずだ。
「溝吉とサムエルを殺したのはお前か!」
 東條が叫ぶとツバキの顔色がさっと変わり、動揺を見せる。
「何ですって? 二人とも殺されたの?」
 とても嘘をついているようには見えなかった。もしかしたら演技なのかもしれない。が、だとすればアカデミー賞ものだ。
 だが、たとえ相手がオスカー女優だとしても、引くわけにはいかなかった。
「しらばくれるのもいい加減にしろ! サムエルはお前のナタで殺されていたんだぞ!」
「ナタは金庫に入っているはずでしょう? どうして私に殺せるというの?」
「スペアキーを持っていたんじゃないのか?」
 そう問い詰めると、ツバキは肩を怒らせながら東條に向かって通路を歩き出した。圧倒するほどの凄い剣幕だ。
「そんなの知らないわよ! そもそも金庫の鍵を捨てようと提案したのはあなたでしょう! それとも私がそう仕向けたとでも? いい加減にして!!」
「じゃあ、誰が二人を殺したというんだ。あんたしかいないだろうが!」
 そう言いつつも、何処かでツバキによる犯行を否定していた。仮に彼女がスペアキーを持っていて、金庫からナタを取り出したとしても、彼女の細腕で屈強なサムエルを葬ることなど可能とは思えない。仮にスタンガンを使っても、だ。
 溝吉に至っては、なおさら考えづらい。なにせ

を交えた後である。そんな相手にあんなむごい仕打ちをするとはとても思えない。例え娼婦といえど、ツバキは思慮深い人間であると、東條はこの二日間で感じていたからだ。
「私じゃないわ。それに私を疑うのなら、もっと怪しい人物がいるでしょう?」思わせぶりな口調でほのめかす。
「……まさか、明日香のことを言っているのか? 一体何の根拠がある!」
 ――そうだ! 明日香が殺人など犯すわけがない!
 たとえどんなに怪しかったとしても、明日香を信じると決めていた。
「明日香のことはどうでもいい。それより今までどこにいたんだ? さっきの口ぶりだと控え室には戻っていないようだが」
「ずっとここにいたわ。ほら、ここには暗幕があるでしょう? 布団代わりにはちょうどいいの。昨夜だって溝吉さんと……」
「判った! もういい!!」
 ほくそ笑むツバキを独り置き、東條はホールを出た。

 ロビーの時計を見ると、時刻は既に十一時を過ぎていた。タイムリミットまであと一時間弱。ツバキを恨めしく思ったが、このまま何とか持ちこたえて欲しいと、東條は真剣に祈った。 

 東條は扉に付着した血痕を思い出し、熟考したのちに一つの仮説を立てた。
 ――もし、血痕があの人のものだったとしたら……。
 東條はホールへと戻り、再びモーションを掛けてくるツバキを無視し、イノセント・ゲームの参加メンバーを思い出しながらアタッシュケースを確かめた。これまで東條は、イノセント・ゲームにエントリーされたのは自分を含め、全部で十一人と思い込んでいた。
 しかし、実際にケースが十個しか存在しない。
 つまり、誰かざる客『Z』が紛れ込んでいたというワケだ。そのZが、ケースをどこかに隠した可能性もなくはないが、限りなくゼロと言って良いだろう。

 ロビーの床を勢いよく蹴ると、東條は無意識に駆けだしていた……。
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