第7話

文字数 2,377文字

 それはジュエリーショップの角を曲がった時だった。街灯の淡い光のもと、赤いワンピースを着た一人の若い女性が目に留まった。
 街路樹の脇にしゃがみ込み、その女性は蒼い顔をしながら、ぎりぎり聞こえるくらいの微かな唸り声を漏らしている。
「……大丈夫ですか?」
 覗き込むようにしながら、できるだけ丁寧に声を掛ける。すると彼女は咳き込みながら顔を上げて、なにかを訴えようと唇を微かに動かした。どうやら水を欲しているようだった。
 周りを見廻すと、五十メートルほど離れた先に二十四時間営業の餃子屋があり、その隣にコンビニの明かりが、かろうじて見えた。
「少し待っていてください」
 そう言い残すと、コンビニまで駆け寄り、自動ドアをくぐる。
 冷蔵庫に並んだペットボトルの中からミネラルウォーターを一本選び取ると、カウンターに向かい、投げ捨てるように小銭を置いた。
 微妙に眉をひそめる店員を尻目にコンビニを後にすると、さっきの女性の元へ駆け戻る。

「これ、良かったらどうぞ」
 買ったばかりのそれを手渡すと、ワンピースの女は咳き込みながら礼を述べた。彼女はキャップを捻り、半分ほど飲み干すと、発作が収まったようで、ため息を吐いた。
 彼女はハンカチで口を拭うとハンドバッグから財布らしきものを取り出すのが見える。てっきりドリンク代を出すのかと思い、東條は「結構です。それくらい奢りますから」と笑顔で手を振った。
 だが、彼女が取り出したのは財布では無く、半透明のドラッグケースだった。
 慣れた手つきで蓋を開けると、彼女は薄緑色の錠剤を二つ手のひらに乗せ、口に含み、残りのミネラルウォーターで一気に流し込んだ。
 少し気まずい東條だったが、次第に呼吸が整っていく彼女を見ているうちに、不思議とそんな事はどうでも良いという気持ちになっていく。
「ありがとうございます。急に持病の喘息の発作が出たのですが、苦しくて息が出来なくなってどうしても動け……ゴホゴホ」また咳を患い、残りの言葉は聞き取れなかった。

 そのまま少し経つと、薬が効いたらしく、彼女はようやく落ち着いてきた。
 話によると、持ち歩いている水筒の水がいつの間にか漏れていたとの事だった。
 名前を訊ねると、彼女は顔を上げて、飯島明日香(いいじまあすか)と名乗った。
 東條はすかさず「また発作が起きるかもしれないから、どこかで休みを取ろう」と、さりげなく誘う。
 明日香は戸惑いを見せたものの、ゆっくり首を縦に振った。

 自動ドアを開けると、既に零時を過ぎているというのに、店内は活気に満ちた賑わいを見せている。煙草の匂いが充満していて、酔っ払いらしき男たちの話し声が鼓膜を殴りつけた。正直落ち着かない雰囲気であり、後悔せずにはいられない。
「こんなところで申し訳ないね。やっぱり別の店にする?」東條は肩を落としながら言った。
 だが明日香は予想に反し、はにかみながら「ここで構わないわ。餃子は大好物なの。ニンニクの風味が最高ね。匂いなんてまったく気にしないわ」と、キュートな笑顔を見せた。
「実は俺もなんだ。餃子のプールで溺れてもいいくらいに」
 互いにハイになっているのか、くだらない冗談でも笑い合うふたり。明日香の調子はだいぶ回復したようである。
 窓際のテーブル席に着くなりメニューを開く。せわしなく動き回る店員を捕まえ、共に餃子定食を注文すると、東條はそれに瓶ビールを追加した。
 先にビールが運ばれてくると、明日香は二つのコップに注ぎ分けた。明日香は高校生と言われてもおかしくないほどあどけなく、もしかして本当に未成年かもしれないと思えた。さすがに未成年に飲酒をさせるのもどうかと思い、念のために年齢を確認すると、もう二十二歳だとの返事だったので、東條はひと安心した。

「ふたりの出会いに」
 東條は少し大げさに乾杯をし、今更ですがと照れ笑いしながら自己紹介を始めた。関心があるのかないのか、明日香は標準の合わなそうな瞳で時折うなずく。

 こうやって煙が漂う乳白色の照明の下で眺めると、改めてぬいぐるみのような可愛らしさが浮き立って見えた。アイドルと言われても疑わない程で、キュートというよりむしろコケティッシュな顔立ち、小柄だが丸く大きな瞳に、目を逸らすのが、はばかられるくらいだ。髪をかき上げる仕草をみせると、煙草の匂いに紛れてシャンプーの心地よい香りが微かに感じられた。仕事や別れた妻、そして会えない子供たちとのストレスで荒んだ東條の心を和ませた。

 自己紹介が終わると、明日香は素朴な質問をしてきた。
「へえ、システムエンジニアってよく聞くけど、具体的にはどんなお仕事をしているの?」
 明日香は餃子をつまみながらビールの入ったコップを傾ける。すぐに空にすると、まだ半分も減っていない東條のグラスを満杯にしてから自分のグラスに三杯目を注いだ。
「そうだな。俺がやっているのは主に企業向けソフトの開発やメンテナンス。後は雑用かな」
「雑用って?」
「例えば新人の教育をしたり、クライアントに頭を下げたり、たまに営業廻りもやらされたりするよ。これでも開発部の主任を任されているんだけど、ウチも人手不足でね。……今日は実家の法事があって有休を貰って、久しぶりに高校時代の同級生と羽を伸ばしていたところさ――。ところで飯島さんは何をしているのかな?」
 東條もおぼつかない箸遣いで餃子をつまみながらビールで流し込む。再び酔いが回ってきたみたいで、少しまぶたが重くなった。
「明日香でいいわよ。派遣会社に登録していて、指定された会社を転々としているの。でも半年ごとに契約更新があるから、いろいろと気を遣うわ。」明日香はまどろんだ瞳を泳がせながら、口を尖らせる。「正社員になれればいいんだけど、なかなかそう上手くはいかないのよね」
「そうなんだ。派遣も大変なんだね」東條は激しく同情した。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み