第59話

文字数 2,558文字

「正直判らない。死因は喉の圧迫による窒息死、つまり絞殺ということだけは間違いない。ただ、肝心の死亡時間となると、少なくとも三時間以上前だということしか判らん。解剖でもすればもっと詳しい時間が解明されるかもしれんがな」
 洗面台の鏡の上の時計を見ると、現在、七時六分。三時間以上前ということは午前四時の時点で息を引き取ったことになる。
 その時、東條は熟睡していた。おそらく他のメンバーも同じに違いない。もちろん犯人を除いて。
「ただ、君の指摘した後頭部に出来た傷のことだが、出血の具合から殴打があってから十時間ほど経っておるのは間違いない」
 十時間前といえば昨日の午後九時。光江が亡くなったと思われる時間帯だ。やはり大沼青年の証言は正しく、少なくとも来栖沢光江の殺害に関しては無実だったことが証明された。

 生前の光江は気丈に振舞っているように見えたが、内心怯えていた。彼女は何かを知り、それを東條に伝えようとした。きっとメンバーの誰かに関する秘密を掴んだに違いない。
 だが、それを伝える前にその人物から襲われるかもしれないし、腰痛持ちの夫を何とかして守らねばと考えた。
 そこでエメラ探しを口実として一人映写室へと向かい、そこで登場を待つことにした。彼女としては賭けだったのかもしれない。おそらく彼女は金づちを握りしめながら映写室の隅に身を沈めて、メンバーが入ってきたら先手必勝とばかりに殴り殺そうと待ち構えていた。たぶん相手は誰でもよかったのだろう。
 そこへ偶然現れたのが大沼青年だった。光江の存在に気づかなかった彼は、背後から渾身の一撃を喰らい、その場に倒れ込む。死んだと思った光江はそこで緊張の糸が切れたのか、そのまま椅子に腰かけると、手にした金づちを床に落とすほどの放心状態になった。そして緊張の糸が切れて、気を失ってしまった。
 そこで別の第三者が入ってきて状況を把握し、倒れている大沼のベルトからナイフを抜き取ると、眠り込んでいる光江に突き刺した。そしてナイフを捨て、その人物は何食わぬ顔で映写室を立ち去った――。
 誰にも信じてはもらえず、孤立した大沼は、独り、トイレの個室という暗黒の城に閉じこもって、孤独な籠城を続けていたのである。
 そして無情にも死をもたらされることに……。
「先生、光江さんのことなんですが……」
 東條は彼女から話したいことがあると告げられたことを話し、何か心当たりがないか訊ねた。
「いや、わしは何も聞いとらんが」
「やっぱりそうですか」
「だが、東條君。それと関係あるかは判らんが、わしからも話しておきたいことがあるんだ」
「なんですか?」
 実は、と来栖沢の唇が動いたところで、溝吉がスマートフォン片手に現れた。大沼和弘の記録を取るために戻ったと思われる。案の定、彼は大沼の死体を撮影していった。どうせこれまでと同様にスクープ狙いなのだろうが、うざったいったらありゃしない。
 いい加減にしてくださいと注意すると、「警察に提出するためや」彼はすまし顔で宣った。東條としては黙するほかなかった。

「あれ!?」スマートフォンを操作していた溝吉が、突然素っ頓狂な声をあげた。
「どうしました?」東條はすぐさま反応した。
「……いや、気のせえや。一瞬、電波が入ったと思ったんやけど。どうやら見間違いのようや。今はちゃんと圏外になっとるわ」
 そう告げると、彼は撮影に戻った。
 ――本当に気のせいだったのだろうか?
 東條はスマートフォンの電源を入れてみた。だが、やはり圏外のままだった。仮に電波が一瞬だけ入ったところで、何の役にも立たないのは判っている。しかし、それでも微かな希望を抱かずにはいられなかった。

「どんな感じですか?」
 蒼白い顔をした飯島明日香がトイレの入り口から顔を覗かせた。
 ひと段落付いて小便器で用を足している来栖沢医師を横目に、東條はトイレから出た。
「大沼も殺られちまった……」東條は沈んだ声を出す。
「……うん、知ってる。さっき溝吉さんから……。それより訊きたいことがあるんだけど……」
「何だい?」
「キャサリン、見てないわよね」
「キャサリン? 彼女もいなくなったのか」
 誰かの手に落ちたのかと真っ先に浮かぶ。大沼の死体を見たあとだったがために、不吉な予感しかしない。
 意外だった。スタンガンという最強の武器を所持しているのだから、他のメンバーはともかく、キャサリンだけは大丈夫だと思っていたからだ。
「溝吉さんが控え室のドアをノックをしたとき、私はまだ眠っていたの。ツバキさんもそうだったらしく、機嫌が悪かったわ。でも一緒に眠っていたはずのキャサリンの姿がどこにも見えなくて。……その時はトイレだろうと思って特に深くは考えなかったわ。でも、大沼さんが殺されたのを聞いて、すぐに水槽を見てみたら金魚が二匹減っていたの。ひょっとしたらキャサリンも殺されたんじゃないかと急に不安に駆られて。……今、女子トイレを見てきたんだけど、やっぱりいなかったわ」
 明日香を元気づけるため、東條は気持ちとは裏腹に気休めを言う。
「キャサリンはスタンガンを持っているから襲われても大丈夫だよ。たまたま早く目覚めて、シアターホールか映写室まで散歩しているのかもしれないし」
 そう言いつつも大沼の死体のあとでは、そんな悠長な事を話している余裕はなく、キャサリンの身を案じずにはいられなかった。
「そうかもしれないけど……何だか胸騒ぎがするのよ」
 明日香は不安げな表情を崩さず、唇が震えていた。
「よし、大沼の検死が終了したところだから、キャサリンを探しに行ってみよう」
 排尿を済ませたのか、来栖沢は腰を押さえながら出てくると、二人の会話が聞こえたようすで驚きの声を上げた。
「キャサリンがいなくなったんだって? それは大変だ。こうしちゃおれん。わしも探すぞ」
 熱意は買うが、その腰では足手まといにしかならないので、控え室で大人しくしてほしいと東條は心の隅で敬遠した。

 そこで東條は、録音を終えた溝吉と二人して、腰痛で顔を歪める来栖沢を支えながら控え室へと戻る。
 途中でシアターホールを覗いてみたが、そこにキャサリンの姿は無かった。ステージの奥にいるかもしれないと声を掛けてはみたものの返事はなく、やはりそこには誰もいないようだった。
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