第53話

文字数 2,633文字

 独りになった東條は、コンコンと大沼の籠る個室をノックして、優しく声を掛けた。
「……いやなら無理に出て来なくてもいい。その代わりと言っては何だが、俺と少し話をしないか?」
 『話すことなんて何もありません。どうせ東條さんも僕が殺したと思っているんでしょう?』相変わらず大沼の声は重いままだったが、先ほどよりもややトーンがダウンしているように東條は感じた。
「さっきはみんなの手前ああ言ったが、俺は君を信じているさ」
 ――とは言いつつも、果たしてそう言い切れるだろうか。状況は圧倒的に不利だ。それが不可抗力だったとしても、他に犯人の目星が立たない以上、現時点で彼を容疑者から外すことは出来ない。
 ――だが……。
「そのことはいずれ判明するよ。今は俺の話を聞いてくれ」
 床に飛び散る窓ガラスの破片を足で払いのけると、東條はスラックスが汚れるのも構わず、胡坐をかきながら個室の扉の前で語り始めた。
 仕事のこと、趣味の映画のこと、妻との出会いや二人の子供、そしてその大切な家族との別れ……。
 いつしか大沼の存在など、初めから無かったかのごとく、独り語りになっていく。やがて大沼からの相槌も耳に入らなくなってくると、涙が止めどなく溢れだした。
 『……そうだったんですか。東條さんにも辛い過去があったんですね。……良かったら僕の話も聞いてもらえますか?』
 大沼もすっかり涙声になっている。幾度となく鼻をすする気配がした。
 『あごの傷、気になるでしょう? さっきは試合の時に転んだなんて言いましたが、本当は違うんです』
「そうだったのか」東條は相槌を打った後、やっぱりなと無言で付け加えた。
 あごについた傷について、大沼は声を枯らしながら語りだした。
 『……実は高校生の頃から交際している同級生の彼女がいて、将来は結婚する約束までしているんです……あれは三か月前の夜でした。デートの帰りに彼女を家まで送ろうと普段は通らない暗い裏路地を歩いていました。そこが近道だったからです。それにその日は予定が押していて焦っていたのかもしれません。不安がる彼女に、僕が一緒だからと強引に手を引いたのが間違いでした。高架線下の薄暗いトンネルに差し掛かったところで、突然包丁を持った男が僕たちの前に立ちふさがりました。強盗だったのです。僕は彼女を守るため、男の前に立ちはだかり、必死に抵抗しました。その時に顎を切られたんです。酔った勢いも手伝って、僕は怒りに任せてその強盗を思い切り突き飛ばしました。……ところがその時に包丁が男の胸に突き刺さったんです』
 まるで自身を責めているかのごとく、大沼の膝を叩く音が聞こえた。
「でもそれは正当防衛だろ? 君は悪くない」
 『ええ、もちろんそうなんです。ですが、その時の僕は気が動転していて、救急車も呼ばず、彼女と一緒にその場から立ち去りました。……翌日の新聞に昨夜の高架線下で男の死体が発見されたという記事を見つけました。記事によると警察は通り魔の犯行と断定して処理されていました。その日以来、毎日が恐怖の連続でした。いつ警察が乗り込んでくるか怯える毎日を過ごしたんです――ところが幾日経っても警察は僕のところに来ませんでした……』
 いつの間にか涙交じりになっていた。深い後悔の念が東條の心に響いてくる。
「天罰が下ったんだよ。君が気にする事は無い。早く忘れるんだ。……俺も他人のことは言えないがね」
 そういって東條は自らを嘲笑するように薄く笑った。
 誰にだって忘れたい過去があるはずだ。想い出にしがみついていても明日はこない。昨日を振り返ってばかりいては、希望の光は決して降り注ぎはしないことを、バツイチのシステムエンジニアは痛感していた。
 『彼女にもそう言われました。「あなたは悪くないから早く忘れて」と。それ以来、僕は全てが悪夢だったと自分に言い聞かせながら、勉強とバスケットに打ち込みました。そしてようやく平穏な生活が戻って来たと思っていた矢先に、あのメールが来たんです』
「……イノセント・ゲームの事か」
 東條はメールの文面を思い出した。
 “……あなた様の秘密を公表させていただきます……”
 大沼にとっての秘密とは、強盗を刺したことだった。包丁ではないにしても、彼の武器がナイフだったのは偶然なのか、それとも……。
 『僕は強盗殺しの過去がバレる事を恐れ、何より彼女と別れたくなくてこのゲームに参加したんです。……最低でしょう? 人殺しの僕が、今度は来栖沢先生の奥さんを殺した容疑者としてトイレに閉じこもっている。人生って皮肉なものですよね』
 哀しき大学生の告白に同情しつつも、東條ははっきりとした強い口調で諭す。
「それとこれとは関係ない! もっと自信を持つんだ。過去はどうあれ、君が光江さんを殺したという証拠はどこにもない。もし君が刺していたとしても、それは止む負えない状況だったからで、誰もが狂気に走ってもおかしくはなかった。……もちろん俺は君の無実を信じているがね。きっとみんなナーバスになっているんだよ。こんなうらぶれた映画館に閉じ込められて、あんなメッセージを聞かされた上に、近藤さんと光江さんの事があったんだから」
 それは東条自身にも言えることだった。このような尋常でない状況では、頭のネジが緩んでも仕方がない。むしろまともな神経でいられる人のほうがどうかしているとさえ思えた。
 『……ありがとうございます。少し気が紛れました』だが、その声はまだぎこちない。
「もし、そこから出てくる気になれば、少なくとも俺は歓迎するし、明日香……いや飯島さんやツバキさんもきっとそうだ。それにそのまま明後日を迎えるも悪くないかもしれない。かえって安全だろうからね。必要なら水と食べ物を差し入れるよ。お腹空いてないかい?」
 『気遣ってくれてありがとうございます。ですが今は食欲ありません。その時はお願いするかもしれませんけど』
「いずれにせよ、あと一日半だ。好きにすればいい」
 『判りました。もう少しここにいることにします。落ち着いたら出ていくかもしれません』
「待ってるぜ。君にエメラを紹介したいんだ」
 ほんの少しだが打ち解けた気がして、気が楽になった。

 腰を上げると、東條はもう一度ノックをし、軽く返事を聞いてからトイレを出た。
 腰を上げると、東條はもう一度ノックをし、軽く返事を聞いてからトイレを出る。去り際にフライパンを指でコツンと鳴らし、彼なりのエールを送った。
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