第76話

文字数 2,406文字

 壁際からゆっくりロビーを覗くと、ベンチには紅平が横になっていた。どうやら眠っているらしい。彼の眼鏡は昨夜と同じくベンチの下に置いてある。サムエルの姿は見当たらないので、別の場所にいるのかもしれない。
 紅平の睡眠を阻害しないよう、慎重に足音を忍ばせながら彼の横を通り過ぎ、上手側の通路に入る。もしかしたらサムエルとトイレで鉢合わせするかもと、緊張の色を崩さない東條と溝吉は気を張りながら一気に駆け込んだ。

 幸いなことにサムエルの姿はそこになく、用を足し終えた東條と溝吉は再び連れ立って通路を戻る。

 ロビーでは紅平がさっきと同じ姿勢のまま、ベンチに寝転がっていた。
 だが、東條は彼の様子が少し奇妙に感じた。昨夜は紅平のいびきがやたらうるさくて眠れない程だったにも関わらず、今は寝息すら聞こえてこない。気になって距離を縮めてみると、彼はだらしなく口を開けながらしっかりと目を見開いているではないか。
 ――これはただ事ではない。
 二人は顔を見合わせ最悪の事態を想定した。東條は焦点の合わない目をした和菓子職人に血の凍るような思いで手を伸ばした瞬間――。

「わっ!!」
 紅平は勢いよく体を起こしながら両手を広げた。
「うわああああ!!」東條と溝吉は同時に叫んだ。
 あまりの衝撃に、東條は腰を抜かし、溝吉は唖然とした表情をしたまま固まった。
 ――人騒がせなヤツだ。先にトイレを済ませておいてよかった。下手すれば今朝の誰かのように大惨事になりかねない。
 東條は軽蔑の眼を紅平に向けた。
「いやあ、こんなに驚くとは思わんかった。勘弁してくれ。冗談じゃよ、冗談」そう言うとドッキリの仕掛人は、頭をかきながら何度も頭を下げた。
 肝を冷やした溝吉は烈火のごとく怒鳴りまくる。
「冗談で済む問題やない! 一歩間違えれば裁判沙汰や! あんたはジョークかも知れへんが、もし心臓マヒでコロッといったらどないするつもりや!!」
 彼の言う通りだ。状況が状況だけに、心臓が破裂してもおかしくはなかった。そんな死に方をするくらいだったら、ひと思いに殺された方がまだマシに思えるくらいに。少なくとも寿命が十年は縮んだのは間違いない。

 ゆっくりと息を整え、ようやく落ち着きを取り戻すと、東條は割りばしのトリックについて問いただした。
 証拠が揃い、もはや言い逃れのできない紅平は、呆れるほどあっさりと認めた。予想通りサムエルも共犯である。
 顔を歪めながら腰を押さえ、紅平はエメラを殺したことをきっちりと謝罪した。
 来栖沢が亡くなったことを東條が告げると、紅平はみるみるうちに蒼ざめていった。
「……そうか、先生が使ったんじゃな……」ぽつりと呟くと、下を向きながらとくとくと話を続けた。「……信じてもらえんかもしれんが、ワシは怖かったんじゃ。最初は気楽に構えとったんじゃが、次々と人が殺されていくのを目の当たりにしていくうちに、殺られる前に殺してしまえという気になった。……お主の推測通りあのロシア人と共謀して、瓶から注射器で毒を抜き取り、目薬の中へ入れ替えた。そしてちゃんと効くか、致死量はどれくらいかを試すため、毒を塗ったパンをエメラに与えたんじゃ。……今思えば恐ろしいことじゃった。悔やんでも悔やみきれない。魔が差したとはいえ、やはりこんな真似は止めようとサムエルに訴えたんじゃが、口喧嘩になり、どこかに行っていまった。おそらく映写室じゃろう。あそこなら誰も来ないだろうから、冷静になるには持って来いじゃ。残ったわしは箸を取り返えそうと一旦は思ったものの、足がすくんでしもうてな。結局このロビーに居座るしかなかったんじゃ。毒の入った目薬はもうトイレに流した。あんなものはもう二度と見たくないからのぉ」
 遠い目をした紅平の瞳に光るものが見え、心から反省しているように感じた。これが演技だとはとても思えない。
 それでも腑に落ちない点があり、東條はそれを指摘する。
「でも、どうして俺たちを驚かせるような真似を?」
 紅平はイタズラがバレた子どものように顔を赤色に染め、再び頭を掻いてみせた。
「……照れ隠しとでもいうか、どうにも素直になれんでのう。ここで死んだふりをして、誰かを驚かせてから謝るつもりでいたんじゃよ」
 ――気持ちは判らんでもないが、人騒がせにもほどがある。しかも、こいつのせいで人がひとり死んでいるのだ。いくら言い訳したところで罪が消えるわけがない。
 東條は怒りをぶつけた。
「でも、あなたのせいで来栖沢先生が犠牲になったんですよ!」
「……反省しておる。先生には済まない事をしたと。謝っても謝り切れない。……弁解させてもらうと、毒を塗った箸を仕込んだのは一膳だけじゃから、まさか、こんなに早く誰かに当たるとは夢にも思わなかったんじゃ。別に賞金が目的じゃない。繰り返すがわしは怖かっただけなんじゃ」
 その目は生気を失い、子どものように怯えていた。だが、エメラを実験台に使ったのは、決して許さるものではなかった。
「……明日香とツバキさんが待っています。一緒に控え室に来てください。先生の事はともかく、エメラを殺めた事実を謝罪するために。……もし、本気で後悔しているのであれば、せめて彼女たちだけにも、誠意を見せてください」
 溝吉も紅平に向けて苦言を述べる。
「そや、あいつらはホンマに辛そうやった。特に明日香はんは死にそうなくらいヘコんでいたで。せめてあんたが直接、頭を下げんと納得いかへんと思う」
「……判った」紅平は一瞬腰を浮かべるが、再び腰を下ろし、「……じゃが、もう少しここに居させてはもらえんかのう。実を言うと、さっきお前さんたちを驚かせた時、ぎっくり腰になってしもうたんじゃ」
 確かに紅平はずっと腰をさすっていた。年齢のわりに活動的なアクティブシルバーも寄る年波には勝てないというワケか。
 東條と溝吉は再度寝転ぶ紅平をそのままにして、控え室へと戻った。
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