第71話

文字数 1,826文字

 ふと、かつての妻と一緒に観たDVDを思い出す。タイトルは『()がために鐘は鳴る』で、ゲイリー・クーパーとイングリッド・バーグマン主演の戦争映画だ。
 あの時も鑑賞が終わった後に、何とも言い知れぬ切ない気持ちになった。思えばあの時のやりきれない思いと似てなくもない。
 そんな胸の奥を悟られまいと、出来るだけ気丈に振舞いながら顔を向けると、ツバキは明日香と共に優しく寄り添いながら互いに肩を温め合っていた。
 悲しみを共有する来栖沢の前にエメラを横たえると、「これは……可哀そうに」絞り出すように声を発したあとで検死を始めた。
「判っとるとは思うが、わしにとって猫は専門外だから大体のことしか……」一旦、言葉を呑み込むと「死後硬直の具合からエメラが息を引き取ってから三十分から一時間くらいがけいかしておる。時間にすると午後二時から二時半の間といったところだな」
 時計を見ると二時五十七分。東條は気になっていた毒の正体を訊ねてみた。
「わずかだがアンモニア臭がする。十中八九シアン化合物だ。青酸カリと言ったほうが判り易いかもしれん。掻きむしった跡がどこにも見られないから、きっと即死だったに違いない。苦しむ時間がわずかだったのがせめてもの救いだな」
 ――青酸カリ? 
 ニュースなどでたびたび耳にするが、実際にそれを使った殺人を目の前で体験するのは初めてである。厳密にいえば殺人ではなくて殺猫なのだが。
「紅平さんの持っていた毒と同じでしょうか?」
「それは判断しかねる。実際に瓶の中身を確認しないことにはな」来栖沢は金庫を見やる。
「それはもう無理よ、金庫の鍵はトイレに流したんだから……」やりきれない思いの明日香は呟くように視線を水槽に向けた。
 ――そうだ、金魚はどうなっているのだろう?
 東條は立ち上がって水槽の中を数えだす。金魚は七匹のままだった。考えてみると当然だ。これまで金魚の数とその時生きていたメンバーの人数は一致していた。東條の推理では水槽で泳ぐこの金魚はメンバーたちの象徴であり、イレギュラーであるエメラはその数に含まれないのは当たり前だ。

 来栖沢の見解は続く。
「例え瓶の中身が青酸カリだったとしても、それがエメラに盛られたものだとは限らない。第一、その毒の入った瓶はシールで封印されていたんだろう? それに青酸カリは粉末で保管されるのが常識だ。液状だとかさばるし匂いも強い。何より危険だからな」
 確かに最初見た時も、金庫に入れる前も瓶のシールが剥がされた形跡はなかった。中身が少し減っていた気もするが、その記憶も定かではない。紅平本人に訊いてもきっと知らないと答えるはずだ。
 では青酸カリは別に存在していた事になる。しかも来栖沢の話によると、通常は粉末で保管するらしいし、匂いもないようだ。その気になれば隠し場所なんていくらでもあるわけで、見つけるのは困難だろう。

 明日香はエメラの赤い首輪を外し、ブレスレットのように左手へと巻き付けると、その形見を見つめながらひと撫でした。
 そして押入れからシーツを持ちだすと、硬く冷たいエメラを愛おしそうに包み込む。
 
 東條と明日香は死者たちの眠る倉庫へ愛猫の(むくろ)を運びいれると、冷たい床にそっと横たえた。
 沈み切った表情の明日香は眼を閉じて黙とうを捧げ、東條も厳かに手を合わせた。
 明日香は名残を惜しそうに視線を残し、東條に連れられて倉庫を後にした。

 その時、東條は何かの違和感を憶えたが、その正体を追求するまでは及ばなかった。

「……エメラはどうして死ななければならなかったのかしら……」
 控え室に戻った明日香は屍のような瞳で、誰ともなく問いかける。東條は優しく手を握り、静かに語りかけた。
「……エメラを殺したところで賞金が増える訳でもない。誰かが恨みを持っているとも思えないし、まさかエメラに襲われると考えた者もいないだろう。犯人にとってエメラを殺した目的は何だろうな……」
 そこで来栖沢は一つの仮説を出した。
「……こうは考えられんだろうか? 誰かが青酸カリを隠し持っていて、それをエメラが見つけた。そして毒とは思わず、餌だと思って舐めてしまった――つまり事故だったという訳だ……エメラは即死だろうから、ステージに食べ残しが残っておるかもしれんぞ」
 即座に反応した東條と明日香は控え室を飛び出し、シアターホールへ向かう。
 途中、喫煙所に深刻な表情のサムエルと紅平の姿を見かけたが、今は声を掛けている場合ではない。
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