第41話
文字数 2,091文字
ふと、記憶の海を泳ぎだす。
――四年ほど前のことだ。上の息子が捨て犬を拾って来た時があった。チワワかプードルだか覚えていないが、愛らしさよりも嫌悪感の方が先に立ったのはハッキリと記憶に刻まれている。当時、社運を賭けたプロジェクトのリーダーだった俺は、納期の遅れや致命的なバグが見つかるなどのトラブルが相次ぎ、神経が高ぶっていた。
必要以上に怒鳴り散らし、ペット禁止のマンションであることを理由に捨てさせた。
子供たちは延々と泣きじゃくり、妻はペット可の物件に引っ越してもいいとまで言って抗議したが、頑として譲らなかった。今思えば、それくらいしてあげてもよかったのではないかと、しきりに後悔している。それも離婚原因の一つかもしれない。
――この猫も、確かにかわいらしいとは思う。あの時の俺とは違うと信じたい。だが、こうして眺めていても、そのトラウマのせいか、素直に受け入れることができないでいた。さっき映写室で手の甲を引っ掻かれたことも頭に残っていた。そんな微妙な怯えを、この猫は敏感に察知しているのかもしれない。
「ねえ、名前を付けません?」明日香の意見に光江も「いいわね。何がいいかしら」と賛同した。
「わしはなんでもいいぞ」来栖沢医師はぶっきらぼうにいった。興味がないわけではないだろうが、そういうのは苦手というスタンスに映った。
正直、東條も名前なんてどうでもよかった。だが明日香の手前、無視するわけにもいかない。関心のあるふりをしながら畳の上で喉を鳴らす灰色猫を一心に眺め、候補を絞り出した。
「そうだな。全身灰色だから、『グレーマン』ってのはどうだい?」
「駄目よ。女の子なんだからもっと可愛らしいネーミングにしないと。それに猫に対してマンはおかしいでしょう? 適当に名付けないでちょうだい! あなたってどんなセンスをしてるのかしら」散々な言われようである。
――メスだったのか。そういえば股間にそれらしきものが見あたらない。
「じゃあ、『ジバニャン』はどう? 他にも『チャトラン』とか『ジジ」とか」
東條に続いて来栖沢も乗っかる。「それより『タマ』なんてかわいらしくいいんじゃないかな」
二人を無視するかのように、何かを思い付いたらしい明日香は、眼を輝かせながら、パン!と手を鳴らし――、
「そうだ! 瞳がエメラルドグリーンだから『エメラ』ってのはどうかしら?」
悪くないネーミングだと東條は思った。光江も「素敵な名前ね」と拍手をした。一方、来栖沢の方は、いまいちピンと来ていない様子を見せていたが、異議を申し立てようとはしない。
爛々 とした瞳を仔猫に向けて、明日香は「エメラ」と、その名を呼んだ。
その声に反応したのか、それまで退屈そうにあくびをしていた雌猫も嬉しそうに喉を鳴らし、名付け親である明日香にすり寄ってくる。まるで元々その名前であったかのように。
――エメラ……か。
何やら怪獣映画に出てきそうな名前だが、グレーマンよりかはよっぽどマシか。東條は自分のネーミングセンスのなさに、深いため息を漏らした。
光江は「エメラちゃん、もっとお食べ」と、再びコッペパンをちぎる。
さすがに腹が膨れたのか、灰色猫改めエメラは、水を少し舐めるとそっぽを向く。そのまま流し台までのそのそ揺れると、背中を伸ばしながらもう一度あくびをした。やがて部屋の中央に向けて足を転がすと、ゴロンと横になってまぶたを閉じる。
――いい気なもんだ。こっちは命が掛かっているのに。
一瞬、エメラルドの瞳に鈍い光が宿って見えたのは、東條の錯覚なのだろうか。
時計を見ると二十時二分だった。それが合図になったわけではないだろうが、東條のお腹が鳴った。そういえば朝食以来、何も口にしていおらず、胃袋が悲鳴を上げてもおかしくはなかった。
歯科医師夫妻は先に済ませていたらしく、食事を提案しても、「うちらは大丈夫」と、二人ともエメラの寝顔を見入っている。ゴミ箱を覗くとインスタント麺のカップが二つ捨てられていた。
東條は棚を物色し、目に付いた豚骨風味のカップ麺を選び取ると、続けざまにやかんをコンロに掛けた。
明日香もとうに限界らしく、フリーザーから冷凍ピザを取り出すと、電子レンジにセットしている。
五分ほどでレンジが鳴った。明日香がレンジを開いた途端に香ばしいチーズの匂いが漂ってきた。彼女はピザを皿に乗せ、昇り立つ湯気を揺らしながらちゃぶ台に置く。
ちょうど東條のカップラーメンも出来上がったところだった。こちらも食欲をそそる豚骨の香りがよだれを誘発してくる。
棚の引き出しから袋に入った割り箸と使い捨てのプラスチック製のフォークを取り出し、東條と明日香は朝食以来の食事に舌鼓を打つ。明日香がピザを頬張り、トマトソースのついた右手をぺろりと舐める。その様子を横目にした東條は、やっぱりそれにすればよかったと少し後悔した。ラーメンも十分満足だったが、今度はピザにしようと心に決める。
そんな東條が何気なく部屋の奥に視線を向けると、ロシアンブルーのエメラは、来栖沢夫妻に見守られながら、部屋の隅で丸くなっていた。
――四年ほど前のことだ。上の息子が捨て犬を拾って来た時があった。チワワかプードルだか覚えていないが、愛らしさよりも嫌悪感の方が先に立ったのはハッキリと記憶に刻まれている。当時、社運を賭けたプロジェクトのリーダーだった俺は、納期の遅れや致命的なバグが見つかるなどのトラブルが相次ぎ、神経が高ぶっていた。
必要以上に怒鳴り散らし、ペット禁止のマンションであることを理由に捨てさせた。
子供たちは延々と泣きじゃくり、妻はペット可の物件に引っ越してもいいとまで言って抗議したが、頑として譲らなかった。今思えば、それくらいしてあげてもよかったのではないかと、しきりに後悔している。それも離婚原因の一つかもしれない。
――この猫も、確かにかわいらしいとは思う。あの時の俺とは違うと信じたい。だが、こうして眺めていても、そのトラウマのせいか、素直に受け入れることができないでいた。さっき映写室で手の甲を引っ掻かれたことも頭に残っていた。そんな微妙な怯えを、この猫は敏感に察知しているのかもしれない。
「ねえ、名前を付けません?」明日香の意見に光江も「いいわね。何がいいかしら」と賛同した。
「わしはなんでもいいぞ」来栖沢医師はぶっきらぼうにいった。興味がないわけではないだろうが、そういうのは苦手というスタンスに映った。
正直、東條も名前なんてどうでもよかった。だが明日香の手前、無視するわけにもいかない。関心のあるふりをしながら畳の上で喉を鳴らす灰色猫を一心に眺め、候補を絞り出した。
「そうだな。全身灰色だから、『グレーマン』ってのはどうだい?」
「駄目よ。女の子なんだからもっと可愛らしいネーミングにしないと。それに猫に対してマンはおかしいでしょう? 適当に名付けないでちょうだい! あなたってどんなセンスをしてるのかしら」散々な言われようである。
――メスだったのか。そういえば股間にそれらしきものが見あたらない。
「じゃあ、『ジバニャン』はどう? 他にも『チャトラン』とか『ジジ」とか」
東條に続いて来栖沢も乗っかる。「それより『タマ』なんてかわいらしくいいんじゃないかな」
二人を無視するかのように、何かを思い付いたらしい明日香は、眼を輝かせながら、パン!と手を鳴らし――、
「そうだ! 瞳がエメラルドグリーンだから『エメラ』ってのはどうかしら?」
悪くないネーミングだと東條は思った。光江も「素敵な名前ね」と拍手をした。一方、来栖沢の方は、いまいちピンと来ていない様子を見せていたが、異議を申し立てようとはしない。
その声に反応したのか、それまで退屈そうにあくびをしていた雌猫も嬉しそうに喉を鳴らし、名付け親である明日香にすり寄ってくる。まるで元々その名前であったかのように。
――エメラ……か。
何やら怪獣映画に出てきそうな名前だが、グレーマンよりかはよっぽどマシか。東條は自分のネーミングセンスのなさに、深いため息を漏らした。
光江は「エメラちゃん、もっとお食べ」と、再びコッペパンをちぎる。
さすがに腹が膨れたのか、灰色猫改めエメラは、水を少し舐めるとそっぽを向く。そのまま流し台までのそのそ揺れると、背中を伸ばしながらもう一度あくびをした。やがて部屋の中央に向けて足を転がすと、ゴロンと横になってまぶたを閉じる。
――いい気なもんだ。こっちは命が掛かっているのに。
一瞬、エメラルドの瞳に鈍い光が宿って見えたのは、東條の錯覚なのだろうか。
時計を見ると二十時二分だった。それが合図になったわけではないだろうが、東條のお腹が鳴った。そういえば朝食以来、何も口にしていおらず、胃袋が悲鳴を上げてもおかしくはなかった。
歯科医師夫妻は先に済ませていたらしく、食事を提案しても、「うちらは大丈夫」と、二人ともエメラの寝顔を見入っている。ゴミ箱を覗くとインスタント麺のカップが二つ捨てられていた。
東條は棚を物色し、目に付いた豚骨風味のカップ麺を選び取ると、続けざまにやかんをコンロに掛けた。
明日香もとうに限界らしく、フリーザーから冷凍ピザを取り出すと、電子レンジにセットしている。
五分ほどでレンジが鳴った。明日香がレンジを開いた途端に香ばしいチーズの匂いが漂ってきた。彼女はピザを皿に乗せ、昇り立つ湯気を揺らしながらちゃぶ台に置く。
ちょうど東條のカップラーメンも出来上がったところだった。こちらも食欲をそそる豚骨の香りがよだれを誘発してくる。
棚の引き出しから袋に入った割り箸と使い捨てのプラスチック製のフォークを取り出し、東條と明日香は朝食以来の食事に舌鼓を打つ。明日香がピザを頬張り、トマトソースのついた右手をぺろりと舐める。その様子を横目にした東條は、やっぱりそれにすればよかったと少し後悔した。ラーメンも十分満足だったが、今度はピザにしようと心に決める。
そんな東條が何気なく部屋の奥に視線を向けると、ロシアンブルーのエメラは、来栖沢夫妻に見守られながら、部屋の隅で丸くなっていた。