第70話

文字数 1,630文字

「嘘だろ……」
 東條隆之がシアターホールに入って、最初に口にした言葉だった。

 飯島明日香に手を引かれシアターホールに入った東條は、彼女の指差すステージの上に目を向ける。そこではツバキ、紅平万治、サムエル・ジェパーソンの三人が床の一点に視線を定めていた。彼らの視線の先にあるグレーの小さな塊。それがエメラであると一目で確信した。
 一見、体を丸めて眠っているようにも映ったが、それだけのことでわざわざ呼びつけたりはしまい。それは明日香の涙や、ステージ上の三人の張り詰めた空気からも容易に推測できた。
 ステージを駆け上がった東條は床の上で冷たくなっているエメラを確認すると、ほとんど関心が無かったにも拘わらず、どうしようもない熱い思いが走馬灯のように込み上げてくる。映写室でZだと思い込み驚かされたこと。撫でようとして爪を立てられたこと、何度も逃げ出しては皆を困らせたこと、そして明日香だけでなく、メンバー全員のマスコットとして常に中心の存在だったこと……。
 エメラは安らぎのシンボルだった。きっと来栖沢と溝吉も嘆き悲しむに違いない。
 チャームポイントであるエメラルドグリーンの瞳は光を失い、かつての面影はどこにも見られなかった。あれだけ元気に走り回っていたはずのエメラが、こうも簡単に亡くなるとは、未だに信じられない。死因に関しては、他に目立つキズが無いことからも、何か毒物のようなものを摂取したのは医学の知識に疎い東條にも疑いようがなかった。白い嘔吐物が垂れ流されているのも確認できる。
 ――毒? 
 東條は紅平に視線を向ける。もしかすると彼がエメラを手にかけたのだろうか?
 しかし、彼から提出された小瓶には、しっかりとシールが貼られていて、破られた形跡はなかった。したがって紅平のとは別の毒物なのかもしれない。

 流れゆく涙を抑えきれない明日香は、エメラの前でうずくまると、とうとう泣き崩れてしまった。その姿は、これまで起きてきた四件のどの事件よりも遥かにショックを受けているように映る。明日香ほどではないにせよ、他の三人も同様であり、みんなにとってある意味、身内を失ったような悲しみを感じている筈。もちろん東條もいわずもがなだった。

 いたたまれなくなったのか、サムエルと紅平は背中を丸めながらシアターホールの外へ移動していった。
 残された東條たちはエメラの亡骸を控え室へ運ぶ。例の歯科医師に検死してもらうためだった。
 この時、東條は初めてエメラを抱きかかえた。
 これまで幾度となく拒絶し続け、ついにその腕に抱えられることになった今は、もう退屈そうなあの鳴き声を聞くことなど永遠に叶わない。
 自然と涙がこぼれてくる。
 妻と子供たちを失ってから幾度となく流してきたが、何度経験しても慣れることはない。
 ――もっと優しく接すればよかった、ちゃんと話を聞けばよかった。仕事のトラブルで八つ当たりなんてしなければ……。
 胸をえぐられるよう思いがこみ上げ、嗚咽しそうになった。まさか、こんな辺境の地で、このような思いに駆られるとは――。
 足裏の痛みはもうすっかり消えていた。

 明日香とツバキに悟られないように、親指の腹でさり気なく涙を拭きとりながら、控え室に戻る。
 エメラの悲劇を伝えると、来栖沢栄太もさすがに動揺を隠せないでいた。あれだけ無関心を装っていた溝吉豊ですら「ワイらのアイドルやったのに……」と背を向けて肩を震わせた。
 彼らにとって、エメラとはそういう存在だったのだろう。メンバーは、みんな初対面だ。しかも協力者でもありライバルでもある。誰が殺されたとしても悲しみは薄いだろうし、賞金が増えるのだから、陰でほくそ笑んでいる者がいてもおかしくはない。
 しかし、エメラは違う。彼女の存在はみんなにとってもオアシスであり、安らぎでもあった。それがこんな姿になったのだから、それぞれのショックは計り知れない。もちろん東條もその中の一人であり、少なからず悲哀を感じていた。
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