第87話

文字数 2,350文字

 喫煙所で煙草を吸い、気持ちを落ち着かせてから、東條はベンチに座り溜息をつく。
 だが、次第に自分の置かれた状況に苛立ちを憶え、ベンチをこぶしで殴りつけた。
 明日香はそんな自暴自棄になった彼をたしなめる。
「気持ちは判るけど、少しは冷静になって。確かにあなたのいう通り、残りはツバキさんしかいないわ……もし彼女が犯人ならば、だけどね」
 明日香の目は明らかに警戒している。東條は目を丸くした。
「俺を疑うのか? 君だけは信じていたのに」縋りつくような視線を明日香に向けた。
「もちろん私も信じているわ。でもあなたが人殺しではないという証拠はないでしょう? ひょっとして今朝、私を襲ったのもあなたなの?」
 東條は勢いよく立ち上がり、声を荒げる。
「そんな訳ないだろう! 俺は無実だ。いいか、大沼君、来栖沢先生、そして紅平さんの三人を殺した犯人は判明している。それに近藤さんが死んだ時、俺たちは一緒だった。残る来栖沢光江さん、キャサリン、溝吉さん、サムエルの四人は恐らく同一犯だろう。それをすべて俺が殺したとでもいうのか!」
 四人を殺したのが同一犯だということは、何の根拠もないただの勢いだった。だが見栄を切った手前、失言だとは認めたくはない。
「どうして同一犯だと思う訳?」呆れ顔の明日香。
「……勘だよ勘。犯人はツバキしかいない。もうこれ以上君を疑いたくはないんだ!」もう後には引けない。東條は流れにまかせて暴言を吐いた。サムエルの無残な姿が脳裏に焼き付いて、とても冷静でいられない。
「呆れた。もう少し賢い人だと思っていたけど、結局は勘なの? どうやら私の買いかぶりだったようね」
「とにかく俺は誰も殺していないんだ。信じてくれ、頼む」今度は涙ながらに訴えた。誰に疑われようと平気だったが、明日香だけには見放されたくない。
「信じてあげたいのはやまやまだけど、それを証明できるかしら? あなたの推理だと光江さんを殺めたのはツバキさんじゃなかったんでしょう? だとすればあなたしかいないわ」
「それは明日香も同じだ。さっき言った通り、俺は君を疑っている訳じゃない。単独犯の発言は取り消すよ。犯人は恐らく複数だ。だが少なくともサムエルは金庫に入っていたはずのナタで殺されていた。鍵を持たない俺がどうやってナタを手に入れたというんだ」
 髪をかき上げた明日香は軽蔑するような冷たい表情を浮かべている。
「それはツバキさんも一緒でしょう? 判った! あの時鍵をすり替えたのよ。トイレに流すフリをして別の鍵を流したのね。危うく騙されるところだったわ」そこまで言われて黙っていられない。
「見損なうな! そんな訳ないだろ!!」

 バチン! 

 ロビーに乾いた響きがこだまし、明日香の左頬が赤く染まった。東條は直ぐに冷静になり何度も謝ったが、彼女は聞く耳を持たない。頬を押さえながら毅然と振舞う明日香。
「あなたは何も判っていないのよ、何も……」
「じゃあ、君は何を判っているというんだ?」売り言葉に買い言葉で、つい反射的に口走った。何を焦っているかと自問自答すると、右の手の痺れが胸の奥を刺激した。
「……私たち、ここで別れましょう。これ以上いくら議論を重ねても平行線よ」明日香の涙色の瞳は惜別の時を告げていた。
 諦めるしかなかった。いかなる理由があろうとも、女性に手を挙げるのは男として最低の行為である。東條はそれを充分わきまえていたはずだった。あのことがあってからは特に……。
「そうだな。俺たちは決して交わりそうもない」
 二人は袂を分かつと、明日香はこれ以上話しても無駄とばかりに、ロビーから足早に立ち去っていった。程なくしてバタンとドアを閉める鈍い音が響く。
 東條は震える手で煙草に火をつける。最後の一本だった。空き箱をぐしゃりと握りつぶし、想いを巡らせた。
 明日香の事を気にしていたはずなのに、何故かあの女の顔が目に浮かぶ。
 ――今朝見た夢のせい?
 自分勝手な主張を押し付けるばかりで、話など聞いちゃいなかった。手を上げてしまったのはあの時の一度だけだったが、それはきっかけに過ぎなかったのは紛れもない事実。積もり積もった怒りや憎しみが遂に爆発して、離婚届にサインをさせてしまった。子供たちの軽蔑のまなざしは今でもまぶたの裏に鮮明に浮かび、消すことができない。
 ――また同じ過ちを繰り返そうとしているのか。 
 明日香に限らず、こんな状況では誰もが疑心暗鬼になっても仕方が無い。東條だって本気で明日香を心配しているはずなのに、つい反発して取り返しのつかないことをしてしまった。今頃は控え室で毛布に包まりながら独り怯えていることだろう。
 自分を戒めるためには事件を解決するしかないとの考えに辿り着き、東條は犯人の確定できていない五人を思い浮かべた。

 最初の犠牲者で、背中を銃で撃たれたルポライターと思われる近藤俊則。
 老歯科医師夫人で、映写室でナイフを刺された来栖沢光江。
 アメリカ人の英語教師で、倉庫内で首を刺されたキャサリン・ラドクリフ。
 関西弁のテレビマンで、棒のようなもの(おそらく警棒)で撲殺された溝吉豊。
 そして、無残にもナタで斬首された、ロシア人のテニスプレイヤーのサムエル・ジェパ―ソン。

 近藤が撃たれた時、明日香は確実に隣にいたのは間違いない。光江さんの殺害のあったと思われる時間も共に行動している。その二件について、彼女は確実にシロだ。
 だが、もし残りの三人の殺害が彼女だとしたら……。
 しかし、こうなった以上、ツバキを疑うしかない。
 もし、明日香を信じるとすれば、他の人はともかく、少なくともサムエルもしくは溝吉は彼女の手に落ちたと考えるべきだ。来栖沢医師の唱えたテロリスト説も捨てきれないが、その場合は対処のしようがない。
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