5. 増える虐殺犠牲者と予期せぬ再会

文字数 2,603文字

1994年7月28日木曜日、午後1時30分
タンザニア北西部国境地帯、ACESンガラ事務所

 そして、ベンは仰天すべきことを静かに口にした。
「それと虐殺の犠牲者だが、国連の発表では推定80万人らしい……」
「何だって!?」
 ベンの言葉に一瞬、我を失った。

「信じられない。ルワンダの人口約800万人の1割が虐殺されたなんて……」 
 少し前に出された国連の報告書では犠牲者は最大50万人ということだった。さらに虐殺が続いたことになる。

 ルワンダにはPKO部隊が展開していた。一体、国連や国際社会は何をしていたのだろう。
 完全に手をこまねいていたと言われてもおかしくない。それほど無能で無策な彼らに怒りが湧いてきた。
 これはンガラの難民キャンプでの国連の対応のまずさにも重なっていた。

「これだけの犠牲者が出て、200万人もの国民が難民になるなんて、国として成り立たないよ」
 自分の率直の感想だった。

「いち早い復興を目指すためにも一刻も早く難民が帰国する必要がある」
 少し間を置きベンは言った。

「援助団体は難民に必要な助けを提供しているだけだが、大規模な難民支援が続けば、RPF新政権はわれわれNGOなど国際社会が難民を引き留めて復興を遅らせ、彼らに圧力をかけていると疑ってもおかしくない」 と、ベンが懸念するように重ねた。

 難民の帰還に際しては難民の母国政府の協力が不可欠だ。難民の受け入れ国と帰還先の母国が帰還事業をシンクロさせないと難民は帰還しても生活再建をゼロから始めることになる。特に、虐殺などの人権侵害の疑いがあると帰還しても難民が訴追されたり、処罰されたりしないことが保証されないと帰還を拒む難民も多いだろう。

「ただ、ルワンダ国内の状況がはっきりしないまま、すぐに返すわけにもいかないのも事実だ……」 そう言ってベンは沈黙した。

 タンザニア政府も批准する難民保護に関する国際法では、難民の追放や強制送還は禁止されていた。だが、余裕のない国にとり背に腹は代えられないのも事実だ。国境に軍隊を配置して難民の流入を阻止する例もよくあった。

 二人の懸念は同じだった。新政権が樹立されたといっても、どこまで実効支配出来ているかは分からない。内戦の行方もまだはっきりしない状況で、やみくもに帰還を進めるのはためらわれる。まずは帰還した難民の身の安全を保障することが大前提だ。

「ならば、現地へ行って確かめるというのはどう?」 
 自分でそうは言ったものの、われながら驚いた。

「ルワンダへ行くというのか!?」 ベンは大きな目をさらに見開いて言った。
「うん、直接新政権と確認するというのはどうだろう? この目で難民が安全に帰還出来るのか、それとも今後も国民が危険を感じて難民として脱出し続けるのか、ルワンダ国内の状況を確認するというのは」 
一見とんでもない提案だが、今後を考えると必要に思えた。
 
「確かにそうだな。新政権との関係を早く樹立すれば難民支援への理解を得られる反面、新政権と通じていると、ここの難民から疑われるリスクもある。だが、現段階では内戦が最終的にどうなるかまだ不透なので、今後の支援方針の参考にするためにもやってみる価値はあるな」
 ベンが少し考えて言った。

 このまま新政権が出来て全権を掌握する可能性があるものの、数に勝る旧政権が盛り返す可能性もまだあった。

「でも、ケン。そもそもルワンダ国内に入れるのかもまだ分からんぞ」 と、ベンが心配する。
「ンガラで情報収集し、アンワルと行けば色々と役に立つはずだ」 
 もう一人のスタッフを連れてのルワンダ行きを志願した。

 暗殺されたエジプトのサダト大統領と同じ名前の若い運転手、アンワルはオマーン人の父とタンザニア人の母を持ち、内戦が再燃する直前の3月まで父親が経営するキガリの運送会社を手伝っていて現地の情報には詳しいはずだ。
 それから母親と姉弟たちはダルエス・サラームに避難し、本人は運転手兼ロジスティックス・オフィサーとしてACESで働いていた。

「分かった。三日で出来るか?」 そう言ってベンはルワンダ行きを許可した。
「やってみる。とりあえずンガラのUNHCRから当たってみる」 
 そう返事をしながら何をするべきか考えた。
「では報告を待っている」 そう言うとベンは事務所から出て行った。

 未曾有のルワンダ危機が始まり既に100日が過ぎた。首都キガリはRPFの手に落ち、新政権が樹立されてルワンダの国内情勢は急展開していた。
 この間、ここタンザニアではルワンダとの国境地帯の北部と西部には難民が押し寄せ、各地に巨大な難民キャンプが出現し大混乱に陥っていた。

 一方、キガリでの新政権の樹立に呼応するかのように、ルワンダ西部のザイールとの国境地帯に難民が大量に集結しているという国連の情報もあった。
 タンザニアで起きたような難民の大流入がザイールで起きれば、ただでさえ不安定なザイールの国内情勢に致命的な打撃を与えかねない。

 長らく無政府状態に近い状況にありながら金、ダイヤモンドやウランなど地下資源豊富なザイール南東部において、老獪なモブツ大統領がこの危機を利用しない手はない。

 今後、ルワンダ難民が爆発的に周辺各国になだれ込むと、人口約1億人、アフリカ東部と中部のケニア、タンザニア、ブルンディ、ルワンダ、ザイールなど10か国からなるアフリカ大湖地域全体の収拾がつかなくなる可能性があった。

 この地域はアフリカ最大のビクトリア湖やタンガニーカ湖など大きな湖水が点在し、地球上の凍っていない淡水の4分の1と、魚類の一割の種類にマウンテンゴリラやボノボというヒトに一番近いとされる霊長類が棲むなど自然が豊富だった。
 そんなことが頭をよぎりながらルワンダ行きの段取りを考えていた。

 その時、出て行ったはずのベンが戻ってきた。
「さっき、素敵なお客さんが来ていると言っただろう。彼女だよ!」 
 ベンがニヤリとすると、後ろからショートヘアの小柄な女性が姿を現した。

「岡田先生、久しぶり! 少し痩せました?」 
 少しハスキーな声はナースの中山美樹子のものだった。彼女と会うのはザンビアの難民キャンプ以来だから1年ぶりだ。
 彼女の明るい口調とは裏腹の(なじ)るような視線に気づき目をそらした。

『ミキ、まだ責めるのか……』 
 同時に、ボーっとリンダの横顔が浮かび、過去と現在が入り乱れた。
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