2.失われた二つの命
文字数 2,043文字
1993年7月6日、火曜日午前3時30分
ザンビア北西部州、ソルウェジ州立病院
「ドクター・ダニエル、急患だ!」
走って廊下奥の分娩室まで行くと、後頭部に大きな縫い傷のある男が分娩台の上で寝ていた。産婦人科医のダニエルだ。その傷は夫のいる女性患者と関係し、怒った夫に襲われたという噂だが、真実は不明だった。
「ドクター・ケン、今夜も忙しそうだね」 皮肉にもならないことを言う。
「切迫流産で出血が酷い。感染症の疑いもある。すぐに輸血を始めよう」
話しながら息を整えた。
「了解。そこの分娩台に運んでくれ。彼女の血液型は?」 ダニエルが聞いた。
横のマリアを見るが彼女は目を伏せ、首を横に振った。アフリカの田舎では自分の誕生日さえ知らない人が多いのに、まして血液型を知る人などめったにいない。そもそも、彼女は難民だ。
「クロスマッチで血液型を確認する時間はない。仕方ない、O型を輸血しよう。ドクター・ダニエル、取ってきてくれ」
ダニエルが小走りに薬用保冷庫のある倉庫に向かった。
「ドトール、リンダは助かりますか?」 不安気にマリアが聞く。
「大丈夫、任せて」 そうでも言わないとマリアはその場で崩れ落ちそうだった。
ダニエルはまだか―
分娩台のリンダは相変わらず弱々しい息をしていた。
「タッ、タッ、タッ」
やっと廊下を走る音が近づく。
「ドクター・ケン、すまない。発電機が壊れ、昼間に保冷庫の温度が上がっていてどれも使えない……」 力ない声がダニエルから漏れた。
アフリカにおいて停電は日常茶飯事だった。そのために通常大きな病院では発電機が設置され、輸血用血液などの保冷状況を維持していた。
多くのソ連製のミグ戦闘機は買う予算はあるのに、故障した発電機の修理の予算がないなんて……。
血液が駄目ということは、子供の予防接種用ワクチンも駄目だろう。失望が増すが、まずはリンダの手当だ。
「マリア、ダニエル、血液型は?」
われわれの血液で輸血するしかない。
「私はA型です」 マリアが答える。
「私はAB型だ」 ダニエルが続く。
悲観的な雰囲気が支配する。
「自分はO型だ。すぐに輸血を始めよう。マリア、注射器と大型のバイアル瓶を倉庫から取って来て!」 そう言ってリンダの左横で点滴スタンドをセットし、同じことを隣の分娩台にした。
マリアが大型の膿盆に注射器と数本のバイアル瓶を入れ運んできた。
「ドトール、あったのはこれだけです」 ガッカリしたようにマリアが言った。
「仕方ない。さあ、始めよう」 失望感を打ち消すように声を掛けた。
マリアがアルコールで自分の左腕を消毒し、素早く通常の注射よりかなり太い輸血用注射針を刺した。隣ではダニエルがリンダへの輸血の準備をするのが分かった。
自分の血が注射器に溜まっていき、取り換えられる。それをダニエルがリンダにつながれた点滴スタンドにつなげて輸血していく。
どれだけ輸血しただろうか、体が軽くなってきた。意識はしっかりしていたのでまだいけそうだ。
「マリア、続けて……」 急に意識が遠のいた。
「28、29、30!」 どれだけ気を失っていたのだろう。ダニエルが人工呼吸をする声で目が覚めた。横でマリアがリンダの手をひたすらさすっている。
「ダニエル、代わろう」 立ち上がると一瞬眩暈がした。
「大丈夫か、ケン?」 彼はそう言い一歩引いた。
『リンダ、目を覚ませ!』 そう思い人工呼吸を始めた。
「1、2、3、4!」 心臓マッサージと人工呼吸を交互に繰り返した。
「ドトール、ドトール!」
どれだけ経過したのだろう。泣きながら叫ぶマリアが自分の背中を抱えた。
「マリア、何をするんだ!?」 思わず強い口調になった。
「もう、いいんです。リンダは天に召されました」 マリアがそっと言った。
「そんなことはない! あきらめないぞ!」 そう言いリンダの胸をこぶしで叩いた。
「起きろ、リンダ! 目を覚ませ!」 胸骨が折れると思えるほど強く叩く。
小さな胸を叩きながら、インターン時代のあの夜がフラッシュバックして蘇った。
手術室に大きく鳴り響く警報音と点滅する赤いランプ。
茫然として立ちすくむ自分を駆けつけたナースが押しのける。
あれはクミさんだったのだろうか。
動悸がして苦しくなる。
『死なないでくれ!』
「もうそっとしてやれ、ケン。やれることはやった」
ダニエルがそう言って自分の右腕をつかんだ。
そして、マリアがリンダの両目を閉じた。リンダの唇に自らの唇を強く押し付け、覆い被さる。
嗚咽が静かになった分娩室にこだまする。
それを見て自分は膝をついて崩れ落ちた。何も出来なかった。これほどの絶望と無力感に飲み込まれたのは初めてだった。涙が湧き出て止まらなかった。
『この静けさは一体?』
夜明けの光が少しずつに分娩室の天窓を通して入ってくるのに戸惑った。たった今、小さな二つの命が失われたのに何ごともなかったように新しい一日が始まる。
どうにもならない絶望が自分を満たした。
ザンビア北西部州、ソルウェジ州立病院
「ドクター・ダニエル、急患だ!」
走って廊下奥の分娩室まで行くと、後頭部に大きな縫い傷のある男が分娩台の上で寝ていた。産婦人科医のダニエルだ。その傷は夫のいる女性患者と関係し、怒った夫に襲われたという噂だが、真実は不明だった。
「ドクター・ケン、今夜も忙しそうだね」 皮肉にもならないことを言う。
「切迫流産で出血が酷い。感染症の疑いもある。すぐに輸血を始めよう」
話しながら息を整えた。
「了解。そこの分娩台に運んでくれ。彼女の血液型は?」 ダニエルが聞いた。
横のマリアを見るが彼女は目を伏せ、首を横に振った。アフリカの田舎では自分の誕生日さえ知らない人が多いのに、まして血液型を知る人などめったにいない。そもそも、彼女は難民だ。
「クロスマッチで血液型を確認する時間はない。仕方ない、O型を輸血しよう。ドクター・ダニエル、取ってきてくれ」
ダニエルが小走りに薬用保冷庫のある倉庫に向かった。
「ドトール、リンダは助かりますか?」 不安気にマリアが聞く。
「大丈夫、任せて」 そうでも言わないとマリアはその場で崩れ落ちそうだった。
ダニエルはまだか―
分娩台のリンダは相変わらず弱々しい息をしていた。
「タッ、タッ、タッ」
やっと廊下を走る音が近づく。
「ドクター・ケン、すまない。発電機が壊れ、昼間に保冷庫の温度が上がっていてどれも使えない……」 力ない声がダニエルから漏れた。
アフリカにおいて停電は日常茶飯事だった。そのために通常大きな病院では発電機が設置され、輸血用血液などの保冷状況を維持していた。
多くのソ連製のミグ戦闘機は買う予算はあるのに、故障した発電機の修理の予算がないなんて……。
血液が駄目ということは、子供の予防接種用ワクチンも駄目だろう。失望が増すが、まずはリンダの手当だ。
「マリア、ダニエル、血液型は?」
われわれの血液で輸血するしかない。
「私はA型です」 マリアが答える。
「私はAB型だ」 ダニエルが続く。
悲観的な雰囲気が支配する。
「自分はO型だ。すぐに輸血を始めよう。マリア、注射器と大型のバイアル瓶を倉庫から取って来て!」 そう言ってリンダの左横で点滴スタンドをセットし、同じことを隣の分娩台にした。
マリアが大型の膿盆に注射器と数本のバイアル瓶を入れ運んできた。
「ドトール、あったのはこれだけです」 ガッカリしたようにマリアが言った。
「仕方ない。さあ、始めよう」 失望感を打ち消すように声を掛けた。
マリアがアルコールで自分の左腕を消毒し、素早く通常の注射よりかなり太い輸血用注射針を刺した。隣ではダニエルがリンダへの輸血の準備をするのが分かった。
自分の血が注射器に溜まっていき、取り換えられる。それをダニエルがリンダにつながれた点滴スタンドにつなげて輸血していく。
どれだけ輸血しただろうか、体が軽くなってきた。意識はしっかりしていたのでまだいけそうだ。
「マリア、続けて……」 急に意識が遠のいた。
「28、29、30!」 どれだけ気を失っていたのだろう。ダニエルが人工呼吸をする声で目が覚めた。横でマリアがリンダの手をひたすらさすっている。
「ダニエル、代わろう」 立ち上がると一瞬眩暈がした。
「大丈夫か、ケン?」 彼はそう言い一歩引いた。
『リンダ、目を覚ませ!』 そう思い人工呼吸を始めた。
「1、2、3、4!」 心臓マッサージと人工呼吸を交互に繰り返した。
「ドトール、ドトール!」
どれだけ経過したのだろう。泣きながら叫ぶマリアが自分の背中を抱えた。
「マリア、何をするんだ!?」 思わず強い口調になった。
「もう、いいんです。リンダは天に召されました」 マリアがそっと言った。
「そんなことはない! あきらめないぞ!」 そう言いリンダの胸をこぶしで叩いた。
「起きろ、リンダ! 目を覚ませ!」 胸骨が折れると思えるほど強く叩く。
小さな胸を叩きながら、インターン時代のあの夜がフラッシュバックして蘇った。
手術室に大きく鳴り響く警報音と点滅する赤いランプ。
茫然として立ちすくむ自分を駆けつけたナースが押しのける。
あれはクミさんだったのだろうか。
動悸がして苦しくなる。
『死なないでくれ!』
「もうそっとしてやれ、ケン。やれることはやった」
ダニエルがそう言って自分の右腕をつかんだ。
そして、マリアがリンダの両目を閉じた。リンダの唇に自らの唇を強く押し付け、覆い被さる。
嗚咽が静かになった分娩室にこだまする。
それを見て自分は膝をついて崩れ落ちた。何も出来なかった。これほどの絶望と無力感に飲み込まれたのは初めてだった。涙が湧き出て止まらなかった。
『この静けさは一体?』
夜明けの光が少しずつに分娩室の天窓を通して入ってくるのに戸惑った。たった今、小さな二つの命が失われたのに何ごともなかったように新しい一日が始まる。
どうにもならない絶望が自分を満たした。