5.虐殺を生き延びた子犬たち

文字数 2,897文字

1994年8月10日水曜日、午前2時
キガリ市内

 鬱屈した感情とワラジで火照った頬を夜気で冷やそうと外に出た。
 重い会話に誰もが困憊していた。後の人はダイニングルームに残ってワラジを煽るか、疲れ果ててベッドルームに移った。

 玄関を開け外に出ると子犬たちがお腹を空かせたのだろうか、尻尾を振り近寄ってきた。餌となるものがなかったので頭を撫でているといつの間にかポールが横に立っていた。

「この子犬たちは昨年の息子の誕生日プレゼントに買ったんだ。悪夢のような3カ月を私たちと一緒に過ごした仲間だよ」 
 タバコに火を点けたポールはそう言うと腰をかがめ、犬たちを優しく撫でた。
 そして独り言ちるように語り始めた。

「あの日、4月6日は妻と息子はイースター休みでダルエス・サラームの彼女の実家に帰っていた。あれは本当にラッキーだった。ダルエス・サラームでハビャリマナ大統領とアフリカ各国首脳との会議があり、ここの大使も出席したので、私は留守番だった。大使が帰任したら、家族とダルエスで合流する予定だった。だが、あの日以来大使は帰って来ないし、家族にも会っていない。私は臨時代理大使のまま居残り、ずっと一人大使館状態だ」 と、自嘲気味に言った。

「あの日、大使はルワンダ大統領機で一緒にキガリに戻る予定だったが、急遽予定が変わり乗らなかった。もし乗っていたらと思うと肝が冷えるよ。この内戦にタンザニアも直接関わることになっていたかもしれないからな」 
 ポールはホッとしたのか、ふーっと、タバコの煙を大きく吐いた。

「大統領機が撃墜された直後から市内で虐殺が始まったが、うちのフツ人の使用人も同時に消えた。テレビとか電化製品と共にね。まあ、退職金代わりに持って行ったんだろう。あれ以来停電しているからあっても同じだがな」 と、ポールは苦笑いした。

「最初からツチ人を標的にしていたのは明らかだった。急いでツチ人の使用人と彼の家族を匿った。ここは外交特権で保護されているからな。案の定うちにも民兵がやってきた。酒臭い民兵が、銃とマシェティを振り回しツチ人がいないかと。もちろん、門前払いさ。ここにはウィーン条約で保護されている外交官とその家族が住んでる、と言ってね」 ポールが続ける。

「だが、10日も経つと食料が底を着く。量を減らしたり、一日の食事を2回にしたりして延ばしたがね。身の危険を感じたが、背に腹は代えられぬ。市内にリックと車で買い出しに行ったよ。こういう時、ドルの威力は凄いな。内戦の最中、酒でも何でも買えたよ」 と、また苦笑いする。

「外に出ると街の角という角には土嚢を積んだ即席の検問所が出来、民兵がツチ人を見つけるため身分証をチェックしていた。さすがに外交官プレートを付けた車には手を出さなかった。その検問所の周りには死体が山積みになっていた。野犬に食われ、散らばる腐乱死体がとんでもない臭いを放つおぞましい状況だった。だが、あの日は違った」 
 ポールは感情を整理するように間を取り、新しいタバコに火を点けた。

「食料調達に行った時に通ったある検問所で、消えた使用人を見つけた。あいつは民兵に加わるためにいなくなったんだな。窓越しに目が合った瞬間、『だんな、ツチの奴はどうしてます?』 と、薄笑いを浮かべて聞いてきた。『みんな故郷に帰った』 と、とっさに答えたが、その瞬間ツチ人の使用人とその家族の命が危ないと悟った」
 ふーっと彼は大きく煙を吐きながら嘆息した。

「急いで戻ると、早速消えた元使用人がマシェティを手に仲間とやって来た。『ツチを出せ!』 と、ゲートをドンドンと叩いて騒いだ。外交特権なんて奴らには通用しない。開けないと乗り込むというので、仕方なくゲートを開けてここまで入れたよ。そして家の中を探す、探さないで押し問答になった。ついに激高した元使用人が手にしていたマシェティをこの木に思いっきり突き立てた。『次はお前だ!』と、大声で喚いて。この傷がそうだ」 
 彼は抉られて色の変わった駐車スペース端に茂る大きな木の幹の傷を手でなぞった。

 さらにポールは話を続ける。
「騒ぎを聞き、ツチ人の使用人夫婦が奥から出てきた。冷や汗をびっしょりかき、ブルブルと震えていた。それを見てフツ人の元使用人は小躍りして喜んだ。夫婦は屠殺場に引かれて行く家畜のように観念して民兵に連れて行かれた。あの後どうなったかは言わないでも分かるだろう……。今も何も出来なかった無力感と、奴らへの怒りが思い返すたびに湧いてくる」 
 ポールは間をしばらく沈黙した。 

「後ろ手に縛られ『後をお願いします』と、使用人が言ったのが最後だった。以来、パタリと民兵は来なくなった。夫婦と引き換えに残りの家族が助かったわけだ。今は彼らの息子たちがここを手伝っている」 
 この家の使用人が若い男の子である理由が分かった。

 そして、またポールの言葉が途切れた。

「これはこの子犬たちを救った木だ」 
 ポールはそう言うと、大きな木にまた手を伸ばした。

「犬の餌が先に底をついた。人間を優先したからな。ひもじさからか、私らが食料調達から戻るとクンクンと声を上げ、まとわりつく。そして泣き声を上げた。日に日に痩せていくのが分かった。このまま飢え死にさせるより、いっそ外に出そうかと思ったよ。だが、そんなことをしたら街中に転がる死体を貪ることになる。何の罪もない犬たちにそんなことをさせられるか? 息子に父さんはお腹が空いたから、お前の犬たちに餌をやらずに死体を食わせたなんて言えるか? だから、一思いに処分することにしたよ」
 ポールの淡々とした口調が却って事態の深刻さを物語る。

「せめて最後に何か食わしてやろうと、残り物を持って外に出たときだった。ドンと、この車のボンネットから大きな音がした。このアボカドの木から実が落ちたんだ。車体が凹んだかと、忌々しく思った。その落ちた実を子犬たちは争うように食べ始めた。それを見て木を揺するとボトボトと次々に実が落ちて来た。もう、車の凹みなんかどうでもよくなった。後は幹を掴んで一心不乱に揺らし、落とせるだけ落としたよ」
 またポールは少し間を取った。

「その時、なぜかすごくホッとした。同時に、自分も虐殺犯と同じことをしていたかもしれないと気付き恐ろしくなった。何も知らない無実の子犬に手をかけるなんて人間じゃない。奴らはそこまで人を追い込む非道なことを平然と行った。だから余計奴らに腹が立つのだ」
 そう言うとポールは再び子犬を撫でた。彼の眼から光るものが流れていた。

 ポールも犠牲者だった。
 無傷の人間などどこにもいなかった。やり場のない怒りは深く傷ついた分大きく、悲しみとなって彼を苛んでいた。
 それはわれわれ援助関係者も同じだった。

 大勢が犠牲になった虐殺は、犠牲者だけでなく、多くの人が肉体的、精神的に傷付いていた。
 関わる者みなをブラックホールのように暗い闇へと飲み込んでいた。
 自分もその暗闇にゆっくりと沈んでいくのを感じた。

 この夜、ワラジの強いアルコールと、重くなった気分でほとんど眠ることが出来なかった。
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