14. 虐殺の傷跡

文字数 2,281文字

1994年8月6日土曜日、午前8時
キガリ市内

 この日の朝はポールの家の近くにあるICRCのコンパウンドに行き話しを聞いた。
 それは丘の斜面に広がる、ピンク色をした病院棟群と事務所などが点在する大きなものだった。双方からの攻撃を避けるため、斜面には遠くからでも目立つように巨大な赤十字が壁面に描かれるとともに、大きな赤十字旗で存在を顕示していた。
 しかし、市街戦末期には赤十字の中立性を知る政府軍の残党が周辺に逃げ込み、RPFの砲撃で施設内のスタッフと患者に死傷者が出たという。
 病室には包帯で体を覆われた大勢の怪我人がベッドに横たわり、いずれもフツ人強硬派に襲われたツチ人住民だという。


 午後はキガリの北にある、国内最大のニャブゴゴ市場に出かけた。現地の人々の暮らしを見るには地元の市場を見るのが一番だった。それに、大所帯となったポールの家の住人のための食料確保も共同生活の大切な役割だった。

 その市場のほとんどの店は一畳程度の広さの露店で、野菜や果物、肉に生活雑貨といった種類ごとに区画が分かれている。サッカー場数面もあるほどの面積だが、閉店している店も多い。

 驚いたのが冷蔵庫もないまま、解体された牛が市場の端から端まで山積みになっていたことだ。あたりの地面は血で染まり、独特のすえた匂いを発し、大量のハエが腐敗しかけた肉に群がっていた。なぜこれだけの牛が屠殺されたのだろう。
 そのためだろうか、キガリ市内の至る場所で串焼きが売られていた。串焼きとは関係ない写真店や雑貨店のような所でも売られていた。

 後で分かったことは、飼い主のいなくなった大量の牛が市場に持ち込まれ、屠殺され売られているのだった。それにしても途方もない牛の数だった。家畜として数匹を飼うだけの世帯が多い中、どれだけの飼い主が殺されたのか、と想像して背筋に冷たいものが走った。

 血を見るのは慣れていたが、その凄惨な情景に、虐殺で殺された住民の姿が重なり突如、吐き気を催した。
 全く肉を食べる気が失せたが、家の人たちの大事な食料だと納得して数キロ買った。

 他にも援助物資が大量に売られていた。アメリカ、ECのロゴなどが大きく印刷された小麦やトウモロコシが袋ごと、食用油は大きな缶に入ったまま売られていた。
「NOT FOR SALE 販売禁止」と、どの物資も大きく印刷されていたが、誰も気に止める様子はない。ンガラでもそうだが、ルワンダでも援助物資の横流しは大々的に起きていた。

 食欲の出なかった夕食の後、気分転換にアンワルが良く行っていたというクラブに二人で出かけた。キガリのクラブがどんな所なのか興味があり出かけたが、他のスタッフは疲れているというので別行動となった。

 それは市内郊外の丘の中腹にぽつんとある店だった。週末だったが、まだ夜の9時過ぎたばかりのせいか客がまばらだ。客は援助関係者らしい外国人が多い。
 店内は電気を点けていたが、かなり暗い。音楽はなく、クラブというよりは単にバーという感じで、発電機の回るバタバタという音がBGMだった。

 アンワルとンガラでもよく飲んでいるブルンディ産のプリムスビールを飲みながら座っていると、客待ちしている女性が寄ってきた。こっちの営業再開も早いようだ。丁重にお断りしたが、それにしても市街戦が終わって間もないのに早くもクラブやバーが再開し、こうした女性までいるとは。人間の欲望とは恐ろしい。

 次に野球帽を深く被り、片腕に包帯を巻いたタバコ売りの少年が寄ってきた。昔の駅弁売りのように首から箱状のものを下げ、その上に何種類ものタバコを並べていた。タバコは吸わないと手を左右に振ったが、何を思ったのかおもむろに包帯で巻かれた右腕の包帯を解きだした。

 包帯の下からは手首から肉がえぐられ、太く黒い縫合糸で大きく雑に縫い合わされた腕が現れた。さらに残った手で野球帽を取ると、毛髪が無くなり大きく縫われて引きつれたピンクの肉がむき出したままの後頭部が現れた。
 
 少年によると3か月前、深夜寝ているとフツ人民兵に家を襲われたという。その場で少年は気絶し、朝気付くと両親と兄は横で息絶え、床には血の海が広がっていたという。

 直前までキガリでは凄惨な虐殺が繰り広げられていたということに気付かされた。
 何も言えず、数枚のルワンダ・フラン紙幣をタバコの箱が並ぶ板の上に置いた。

 キガリでは、この男の子のような傷を負った子供や大人を街でよく見かけた。人がいない一方で、こうした形で虐殺の傷跡が多く残っていた。

 急にクラブにいることが罰当たりのような気がし、アンワルを置き一人、タクシーで帰った。

       ***

 ダイニングルームでろうそくの火でこの日の出来事をみなで話していると、コレラで多くの犠牲者が難民に出ているというザイールのゴマへ行くことを思い付いた。
 ンガラでは4月に起きた大量の難民の流入ではほとんど病死者は出なかった。ゴマでは何が違うのか。
 地図を広げるとそれほど距離はなかった。ゴマはルワンダの国境の町、ギセニと向かい合っており、キガリから北西に約160キロ。

 クラブから戻ったアンワルによると、ルワンダ側の国境の町、ギセニへはキガリから3時間で行け、道路もよく舗装されているという。内戦前であれば、一日でゴマと往復出来たという。

 明日は日曜で、政府機関なども休みだ。親戚の手がかりがないグレイスとICRCの病院をもっと見学したいというチャールズを残し、アンワルの運転でベンとステイシーの4人でゴマに行くことになった。
 出発は翌朝7時とした。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み