11.急激に悪化するキャンプの治安
文字数 2,349文字
1994年8月22日月曜日、午前11時
ACESンガラ事務所
RPFによるルワンダ全土の掌握が視野に入ってくると同時に難民の帰還にも急速に関心がもたれ始める。特に混乱するルワンダ西部に対して、東部はRPF新政府軍による制圧がほぼ終わり、静かだった。
それに呼応するように東部出身の難民から帰還の希望が出て、UNHCRは帰還希望者に対して、説明会をベナコ・キャンプで開催した。その後、農業用具や食料などを一式にした帰還セットを配る準備を始めた。
ACESも帰還者が健康面で問題がないようUNHCRがこれからルワンダ東部各地に設置する帰還者が立ち寄るトランジット・センターでの医療サービス提供で協力することになった。今回のルワンダ視察が具体的な成果となったのだ。
ンガラからのクロスボーダー・オペレーションとなる。場所としてはルスモの国境から40キロ西のキブンゴの町に設置されることになった。
1994年8月27日土曜日、午前8時
UNHCRンガラ事務所会議室
UNHCRによるとザイールとの国境の町、チャンググに大量に集結していた避難民がついに国境を越えてに流入し始めたという。ザイール政府はゴマのような混乱を避けるため、国境を一時封鎖していたが、再開と同時に流れ込んだらしい。
フランス軍による保護地域が撤廃され、ルワンダ西部に逃げたフツ人がパニックに陥り、国境を越えているのだ。もう、誰も止めることが出来ず、ゴマと同じ惨劇が再現されるのは時間の問題だった。
この前見た西に向かうギコンゴロの人の群れを思い出した。
さらに衝撃的な報告があった。フツ人強硬派により帰還希望者が連続して襲撃されたというのだ。
多くが農民であるフツ人難民にとって9月からの少雨期は大事な種まきの時期だ。今年の収穫を既に逃しているので、今種まきが出来ないと来年の今頃まで食料がない状態となる。帰還出来ても途端に飢えるので、農業を再開するために早く帰還を希望するのは当然だった。
この帰還への動きを察知し、一般フツ人難民が彼らから離反することに危機感を覚えたフツ人強硬派は一層の締め付けをし始めた。
帰還したらRPFによって殺されるなどと偽情報を流したが、UNHCRなどの広報キャンペーンで、その効果がないと分かるや否や実力行使に出たのだった。帰還希望者のテントへの放火に始まった嫌がらせは、その後リンチや殺人などにエスレートする。
ベナコの大通りにそうした死体がさらされた。
キャンプ内がかなり不穏な雰囲気にあることは、UNHCRの治安情報や現場からも伝わった。
だが、直接の原因は旧政府の指導者間での内部対立にあった。
フツ人強硬派の究極目標はルワンダのフツ人による再奪還だ。それがフツ人難民をまとめる原動力だった。しかし、RPFによる全土の掌握でそのめども立たなくなった。
何ら結果の出せない旧政府の指導者層に対する不満が若手から出てきた。
この結果、不満を持った若手を中心としたより過激派なグループが形成される。彼らはルワンダへの即時侵攻を公然と説き、出口のないキャンプでの生活に飽きた若い男性難民の間に急激に支持を広げる。
この頃からキャンプの各所では軍事訓練が堂々と行われるようになる。自転車を使っての体力トレーニングでは多数の自転車が一斉に全速力で丘の上から下り、反対の丘までまた全力で漕ぎ上がる。それはあたかも旧日本軍の「銀輪部隊」を彷彿とさせた。
UNHCRは若者のストレス発散にと難民キャンプ内に幾つものサッカー場を作り、チームを結成させた。さらに、ボールやユニフォームを提供してキャンプ内でサッカー選手権さえも実施した。それも残念ながら大きな効果はなく、過激派はキャンプで軍事訓練を拡大し続けた。
皮肉にも新たに作られたサッカー場は軍事教練場として最適だった。
難民間の対立は他にもあった。彼らの間に生じた経済格差が原因だ。
資金のある難民はタンザニア人援助関係者や難民相手にキャンプで食堂や売春宿などを経営した。当然、強硬派からの上納金を要求される。それを拒否した店が警告として放火されたり、経営者の難民が襲われて大怪我をするという事件も起きた。
そもそも、キャンプの食堂のほとんどは横流しの援助物資を食材として提供されたばかりか、衛生状況も悪い。ただ、キャンプで社食を持つのは数えるだけで、多くのキャンプで働く援助関係者には利便性が良く重宝された。このため、頻繁に援助関係者の間にも食中毒患者が出た。
UNHCRは援助関係者に利用しないよう警告していたが、空腹に負けて汚いこの食堂で自分も何度か昼に豆をかけたご飯を食べたが、幸い食中毒にはならなかった。
キャンプ内での支援活動への妨害活動も急増し、援助関係者が活動中に襲われた。難民の不満が援助関係者に直接向き出したことは危険な兆候だ。
食料配給所では暴動が度々発生して配給が中止になることも増える。食料配給中に突然、男たち食料が少ない、虫が入っているなどと難癖を付け騒ぎ出すのだった。それだけでなく、配給所を難民の男たちが封鎖して配給をさせないという実力行使による妨害も起きた。
キャンプ内を移動する援助関係者の車両に石や瓶を投げたり、キャンプ内を歩いている最中に、突然難民に殴られたりする事件も起きた。
当然、K9の入り口に設置された治安状況を知らせる大きな看板が黄色の、キャンプへの必要最小限度の人員派遣と滞在時間を制限する日が再び続くようになる。
これ以上状況が悪化すると撤退する団体も出てくる懸念があった。しかし、そうなると支援に支障が出て難民の生活に悪影響を及ぼす。
誰もが危険と隣り合わせの厳しい現実の中で葛藤しながら援助活動を続けた。
ACESンガラ事務所
RPFによるルワンダ全土の掌握が視野に入ってくると同時に難民の帰還にも急速に関心がもたれ始める。特に混乱するルワンダ西部に対して、東部はRPF新政府軍による制圧がほぼ終わり、静かだった。
それに呼応するように東部出身の難民から帰還の希望が出て、UNHCRは帰還希望者に対して、説明会をベナコ・キャンプで開催した。その後、農業用具や食料などを一式にした帰還セットを配る準備を始めた。
ACESも帰還者が健康面で問題がないようUNHCRがこれからルワンダ東部各地に設置する帰還者が立ち寄るトランジット・センターでの医療サービス提供で協力することになった。今回のルワンダ視察が具体的な成果となったのだ。
ンガラからのクロスボーダー・オペレーションとなる。場所としてはルスモの国境から40キロ西のキブンゴの町に設置されることになった。
1994年8月27日土曜日、午前8時
UNHCRンガラ事務所会議室
UNHCRによるとザイールとの国境の町、チャンググに大量に集結していた避難民がついに国境を越えてに流入し始めたという。ザイール政府はゴマのような混乱を避けるため、国境を一時封鎖していたが、再開と同時に流れ込んだらしい。
フランス軍による保護地域が撤廃され、ルワンダ西部に逃げたフツ人がパニックに陥り、国境を越えているのだ。もう、誰も止めることが出来ず、ゴマと同じ惨劇が再現されるのは時間の問題だった。
この前見た西に向かうギコンゴロの人の群れを思い出した。
さらに衝撃的な報告があった。フツ人強硬派により帰還希望者が連続して襲撃されたというのだ。
多くが農民であるフツ人難民にとって9月からの少雨期は大事な種まきの時期だ。今年の収穫を既に逃しているので、今種まきが出来ないと来年の今頃まで食料がない状態となる。帰還出来ても途端に飢えるので、農業を再開するために早く帰還を希望するのは当然だった。
この帰還への動きを察知し、一般フツ人難民が彼らから離反することに危機感を覚えたフツ人強硬派は一層の締め付けをし始めた。
帰還したらRPFによって殺されるなどと偽情報を流したが、UNHCRなどの広報キャンペーンで、その効果がないと分かるや否や実力行使に出たのだった。帰還希望者のテントへの放火に始まった嫌がらせは、その後リンチや殺人などにエスレートする。
ベナコの大通りにそうした死体がさらされた。
キャンプ内がかなり不穏な雰囲気にあることは、UNHCRの治安情報や現場からも伝わった。
だが、直接の原因は旧政府の指導者間での内部対立にあった。
フツ人強硬派の究極目標はルワンダのフツ人による再奪還だ。それがフツ人難民をまとめる原動力だった。しかし、RPFによる全土の掌握でそのめども立たなくなった。
何ら結果の出せない旧政府の指導者層に対する不満が若手から出てきた。
この結果、不満を持った若手を中心としたより過激派なグループが形成される。彼らはルワンダへの即時侵攻を公然と説き、出口のないキャンプでの生活に飽きた若い男性難民の間に急激に支持を広げる。
この頃からキャンプの各所では軍事訓練が堂々と行われるようになる。自転車を使っての体力トレーニングでは多数の自転車が一斉に全速力で丘の上から下り、反対の丘までまた全力で漕ぎ上がる。それはあたかも旧日本軍の「銀輪部隊」を彷彿とさせた。
UNHCRは若者のストレス発散にと難民キャンプ内に幾つものサッカー場を作り、チームを結成させた。さらに、ボールやユニフォームを提供してキャンプ内でサッカー選手権さえも実施した。それも残念ながら大きな効果はなく、過激派はキャンプで軍事訓練を拡大し続けた。
皮肉にも新たに作られたサッカー場は軍事教練場として最適だった。
難民間の対立は他にもあった。彼らの間に生じた経済格差が原因だ。
資金のある難民はタンザニア人援助関係者や難民相手にキャンプで食堂や売春宿などを経営した。当然、強硬派からの上納金を要求される。それを拒否した店が警告として放火されたり、経営者の難民が襲われて大怪我をするという事件も起きた。
そもそも、キャンプの食堂のほとんどは横流しの援助物資を食材として提供されたばかりか、衛生状況も悪い。ただ、キャンプで社食を持つのは数えるだけで、多くのキャンプで働く援助関係者には利便性が良く重宝された。このため、頻繁に援助関係者の間にも食中毒患者が出た。
UNHCRは援助関係者に利用しないよう警告していたが、空腹に負けて汚いこの食堂で自分も何度か昼に豆をかけたご飯を食べたが、幸い食中毒にはならなかった。
キャンプ内での支援活動への妨害活動も急増し、援助関係者が活動中に襲われた。難民の不満が援助関係者に直接向き出したことは危険な兆候だ。
食料配給所では暴動が度々発生して配給が中止になることも増える。食料配給中に突然、男たち食料が少ない、虫が入っているなどと難癖を付け騒ぎ出すのだった。それだけでなく、配給所を難民の男たちが封鎖して配給をさせないという実力行使による妨害も起きた。
キャンプ内を移動する援助関係者の車両に石や瓶を投げたり、キャンプ内を歩いている最中に、突然難民に殴られたりする事件も起きた。
当然、K9の入り口に設置された治安状況を知らせる大きな看板が黄色の、キャンプへの必要最小限度の人員派遣と滞在時間を制限する日が再び続くようになる。
これ以上状況が悪化すると撤退する団体も出てくる懸念があった。しかし、そうなると支援に支障が出て難民の生活に悪影響を及ぼす。
誰もが危険と隣り合わせの厳しい現実の中で葛藤しながら援助活動を続けた。