21.難民の暮らし

文字数 1,665文字

1994年4月14日木曜日、午前10時
ルコレ・キャンプ

 クリニックでのミーティングの後、ルコレ・キャンプ内を前回よりゆっくり一巡することにした。彼らの生活に関心があったからだ。
 難民が暮らす青いかまくら状のテントは木や枝で組まれた骨組みにビニールシートを覆っただけの簡単なものだ。そのテントは幅2メートル程度の踏み固めた道に沿ってびっしりと並んでいた。

 不思議とそれぞれの大きさは一律で、三畳程度の大きさだった。一世帯4、5人で暮らすには狭い。一部、キャンバス地の三角の白いテントもあったが、供給が追い付かないのか数は少なかった。テントとテントの間隔まちまちで、各テントの周囲には洗濯物がぶら下がって、その間を鬼ごっこでもするかのように小さな子供たちが走り回って遊んでいる。

 ブルンディ難民のテントの中を覗かせてもらうと、水汲み用の黄色いポリタンクに鍋や釜、それに食器類が無造作にビニールシートの床に置かれていた。その他の家財道具らしいものは、丸められた薄いウレタン製のマットレスと毛布だけで、服が何着か骨組みの枝からぶら下がっている。これが全財産で、着の身着のままの逃げてきたことが一目瞭然だった。

 ベナコ・キャンプに通じる幹線道路に面した広場では数百人の難民が列をなし、食料配給が行われていた。入口では数台の大型トラックから次々に茶色いジュート袋が投げ下ろされている。
 中に運ばれて山積みにされた袋の前には受け付けの机が並び、配給担当のNGO職員が白い大きな粒状のものをプラスティック製の大きなマグカップですくい、難民が広げた袋に次々に入れていく。
 この日は白いトウモロコシが配給されていた。メイズと呼ばれる白いトウモロコシ粉は現地の主食でもあるウガリの材料で好まれていたが、アメリカ産などの黄色いトウモロコシは鶏のエサだと言って、拒否反応を起こす難民もいた。

 周囲には警備員らしい木の棒を持った男性が立ち、群衆を管理していた。時々、盛りが少ないせいなのか、配給担当者に向い食ってかかる難民もいたが、そのたびに警備員が木の棒を振り回しては追い払っていた。また、投げ下ろされた際、破れたジュート袋から地面に散乱したトウモロコシを拾おうと殺到する難民も同じように棒で容赦なく追い払われていた。
 誰もが生きるためとはいえ、地面に落ちた食料を必死の形相で奪い合う姿に、そこまで食料事情が悪いのかと胸が痛んだ。
 この他にも豆やサラダ油、塩なども配給されていたが、それだけでは生きていけない。ザンビアでは長期滞在の難民には耕作用に土地が提供されて玉ねぎやトマトなどの野菜を耕作していたが、ここではまだそうした状況にはないようだった。

 この日の午後、自分が診察した最初の患者の女性は背中を刃物で切られていた。次の老人男性は足への切り傷だった。既に応急処置は受けていたので、傷を消毒したり、出血で血のにじんだ包帯を新しいもの巻きなおして手術や縫合をする必要はなかった。次から次に怪我の治療に来る難民は明らかに何らかの戦闘に巻き込まれたか、武器による攻撃を受けたようだ。

 グレイスによると彼らは数週間前にブルンディ経由でタンザニアに逃れたツチ人のルワンダ難民だという。てっきりブルンディ難民と思っていた。彼らはルワンダ国内でフツ人民兵組織から攻撃を受けブルンディへと逃れたという。まずは南部のブルンディに逃れたが、ブルンディの状況が悪化していたので留まることが出来ず、タンザニアまで歩いて国境を越え、このルコレ・キャンプに収容されたという。
 
 今月6日に起きた大統領機の撃墜事件の後、政府軍と反政府勢力による内戦が再燃していたが、 これからもルワンダ国内でフツ人武装勢力によってツチ人への攻撃が増えるなら、重傷を負った難民が次々に国境を越えくるだろう。それに対応するには本格的な手術が可能な設備も必要だ。だが、日々の医薬品でさえやっとなのに、重傷者を治療出来る環境にはない。
 それに医師がもっと必要だ。ベンが医者を欲しがっていた理由が分かった。

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