31. 「ガテテ」、ムランビの屠殺人

文字数 1,009文字

1994年6月11日土曜日、午前8時
UNHCRンガラ事務所会議室
 
 この週の定例会議ではベナコ・キャンプの治安問題が最大の関心事だった。
 徐々に姿を現し始めていた難民組織の実態だったが、ベナコに逃れてきたあるルワンダ難民の処遇によって大きな転機を迎え、警戒するよう注意された。

 ジャン・バプティストゥ・ガテテがルスモの国境に配下のフツ人強硬派グループを引き連れ、集団で現れたのは1カ月前の5月の初めだった。彼は死亡したハビャリマナ大統領側近で、ルワンダ家族省で大臣首席補佐官を務め、昨年までルワンダ北部の首都キガリに近いムランビの市長をしていた。

 ガテテはフツ人強硬派でも鳴らし、大統領機撃墜後の4月6日以降、フツ人で構成された民兵組織を率いてツチ人の虐殺を実行したという。地元のムランビで虐殺を指揮し、その際彼は約4,000人の教会に逃げ込んだツチ人を血も涙もなく、教会で虐殺したことで「ムランビの屠殺人」と、あだ名される。

 ガテテはルスモの国境事務所で難民としてタンザニアに入国を試みる。しかし、ルワンダ政府元高官が難民としてそのまま入国するのは好ましくないと、入国係官に拒まれるが体調不良を訴えたため、人道的措置で入国を許された。
 その際、ベナコ・キャンプには向かわないよう念を押されるが、それを無視してベナコ・キャンプに配下の強硬派と直行する。

 そのガテテがまずキャンプで行ったことは、難民組織のフツ人強硬派による再編成と、その影響力の拡大であった。この結果が、急激に広がった援助関係者への暴力事件であり、難民に対する暴力と恐怖での支配強化であった。
 強硬派に反対する難民への殺人事件も発生し、マシェティによって切り刻まれた惨たらしい死体が見せしめにベナコ・キャンプの大通りにさらされる事件も数件起きた。

 キャンプでのガテテを中心とするフツ人強硬派によるルワンダ難民への暴力が目に余り、彼の追放をUNHCRはやっと決意する。彼とその取り巻きは数百人の警察官を動員した厳戒態勢の下、身柄を確保されダルエス・サラームに移送された。

 その後の行方は謎で、UNHCRとの裏取引でルワンダに戻ったとも、ザイールに逃げたとも噂された。

 だが、ガテテがキャンプから追放された後、ベナコ・キャンプに残ったフツ人強硬派はガテテの連れ戻しを要求して援助関係者への脅迫、暴行事件が多発するようになり、キャンプでの治安が一層悪化した。
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