3.難民キャンプの町

文字数 3,343文字

1994年7月28日木曜日、午前11時10分
タンザニア北西部国境地帯、ンガラ飛行場

 ドスン、という着陸の衝撃で目を開いた。ンガラの町はずれにある飛行場のジャングルの丘を切り開いただけで、むき出しの滑走路は赤茶けた帯のように伸びていた。左前に座る老パイロットは凸凹の滑走路のあちこちに開いたモグラの穴に車輪が取られないように左右に忙しく操縦桿を操っていた。

 駐機場に着くとクルリと機体は滑走路に向かって向きを変えた。そしてプロペラのピッチが変わり「ブワーンッ」と音を立て、一気に逆回転して機体が止まった。二つのエンジンから前方に向かって巻き上がった赤い砂埃が外で待機していた人たちを包む。

 座席下に置いたリュックから無線機を取り出し、老パイロットに見せて交信の許可を求めるしぐさをした。モトローラ製のずっしりした、黒く四角い無線機はアメリカの警察や消防が使うものと同じものだった。

 ンガラで活動する援助団体のスタッフは現場での唯一の通信手段としてこの無線を、まるで西部劇のガンマンのピストルのように誰もが腰からぶら下げていた。

「ヤー」 と、ドイツ語で頷くのを確認し黒いノブを右に捻り、通話ボタンを押す。
「チャーリー・エコー・パパ、チャーリー・エコー・パパ。こちらチャーリー・エコー・シックス」 規定通り2回続けてンガラの事務所にいるはずのベンを呼び出した。

「CE、チャーリー・エコー」は、われわれ「African Cooperation for Emergency Services、ACESアフリカ緊急支援協力会」の団体無線コールサインで、ンガラで活動する援助団体はそれぞれアルファベット二文字のコールサインを持っていた。
 無線では安全上、個人名は使わずコールサインを使う決まりになっていた。
「P、パパ」は団体のトップを意味し、その持ち主、ケニア人のベンは外科医のもので、このNGO、民間援助団体の創設者でもあり代表でもあった。

 そして、自分のコールサイン「チャーリー・エコー・シックス(CE6)」はその6人目を意味していた。

「CE6、こちらCEP。お帰り。CE4が迎えに行っている。どうぞ」 
 ベンの太い声が無線から流れた。ドライバーのモーゼスが来ているようだ。
「CEP、了解。では事務所で」 機体後部の貨物室に回る。
「ところでCE6、素敵なお客さんが来てるぞ」 ベンの薄笑いを含んだ声が流れた。

『素敵なお客さんとは一体誰だろう?』 
 こんなアフリカの奥地まで自分を訪ねてくる人物など想像出来なかったので気味悪かった。

 少し思案しながら貨物室から残りの荷物を持って車に向かったその時だった。駐車スペースに並ぶ援助団体のトヨタランドクルーザー・ピックアップの中で一台がライトを点滅させた。
 迎えのモーゼスだ。

 このピックアップをはじめ、さまざまなモデルのトヨタのランドクルーザーは国連をはじめ、どの援助団体も使う緊急援助の現場での標準装備だった。多くは4WDの白い車体前部のバンパーから黒く長い物干し竿のような無線アンテナを突き出していた。その長いアンテナをマストのようにして団体の旗を結ぶ団体も多かった。

 待っていたピックアップに乗り込む。
 ンガラの町にある、所属するACESの事務所までは未舗装の道路でほぼ40分だった。丘の上の町までの最後数キロの急坂は未舗装で状態がひどく、雨の日はキャンプまで食料などの支援物資やキャンプの建築資材を満載したロシア製KAMAZをはじめ、ベンツなど多数の大型トラックがぬかるみにスタックしたまま放置されることがよくあった。
 だが、食料の配給事情はひっ迫しており、積み荷は素早く回収されて配給に廻された。そうでないとすぐに配給が遅れて暴動になりかねないからだ。

 キャンプの難民に配給される食料は、規定では配給量がトウモロコシや小麦などの穀類で一人当たり、一日約500グラムの計算だった。それを一世帯数週間分まとめて配給していた。その他にも魚や肉の缶詰、食用油、砂糖、塩なども配給された。

 計算上、約50万人が暮らす難民キャンプ群に毎日必要な穀類だけでも250トンにもなる。これを5トントラックだと毎日50台を絶えることなくタンザニアの外れまで輸送しなければならない。
 このため、雨季には輸送が滞ることもしばしばで、配給が遅れて難民が怒り配給担当の援助関係者に食ってかかることもよくあった。

 もっと大きな問題は難民への給水だった。上空から見た給水タンクに供給する水は全てキャンプ近くの小さな湖から取水していた。大規模の汲み上げは周囲の水源を枯らし、地元のタンザニア人の生活水や農業用水にも影響が出始めていた。

 ゴミの問題も深刻だ。難民だから大したゴミが出ないと思われがちだが、援助物資の食料や缶詰など、50万人分の包装や空き缶が出るとなれば毎日一トン近くにも上る。リサイクルもされていたが追い付かず、キャンプ外れの廃棄場はすぐに満杯になった。
 
 当然、難民キャンプにはコストのかかる下水処理施設やし尿処理施設はなく、キャンプの一角のいたる所にある、穴を掘っただけの簡易トイレはすぐ溢れた。溢れたし尿はテントにも流れ込み、病害虫が発生して下痢やチフスなどの感染症の原因となっていた。

 また、大量の難民は煮炊きと暖を取るために大量の薪を必要とした。これはキャンプを管理するUNHCRが灯油などの燃料はテントが密集するキャンプでの大火災の原因となるため禁止していたからだ。
 そもそも、許可しても必要な食料の搬入さえままならないのに、50万人分の燃料をどのように調達して輸送するか、という疑問もあった。

 他の地域も含めると60万人以上のルワンダ難民がタンザニア各地で暮らし、その存在はタンザニア政府と地元の住民に大きな負担となっていた。ルワンダにしても早く紛争を終結させ、早急の経済復興と国民和解のためには難民の早期帰還が望ましいのは明らかだった。


 坂を上り切ると北のブルンディ国境まで続く舗装された道路がンガラの町を南北に縦断していた。町といっても小さな寂れた市場と、隣国ブルンディから密輸されたビールに横流しの援助物資、正体不明の肉(ガゼルやバッファローなど、密猟した野生動物という噂だった)で作った煮込み料理を出すだけの泥壁で出来た食堂が一軒あるだけのアフリカ奥地の田舎町だった。

 それが今では降って湧いたような難民景気でタンザニア中から仕事を求めて人が集まるのと、世界中から援助関係者やマスコミが詰めかける事態となっていた。

 ACESのンガラ事務所は町の中心にあったが、営業をしているのを見たことがない町唯一の、手廻しポンプのあるガソリンスタンドの奥にあった。幾つかの建物をL字型に組み合わせた建物は、事務所というよりは田舎の学校の方がふさわしい作りだ。錆びて薄くなったトタン葺きの屋根は雨漏りし、鳥が歩くとガサガサとうるさい。

 緊急援助の現場では、早朝から深夜まで毎日ほぼ24時間を同僚と過ごさねばならず、精神衛生を管理することが難しい。併設された居住棟ではスタッフ数人で一室を共有し、トイレとシャワーは事務所全体で一つしかなかった。もちろん、電気や水道などはなく、明かりはランプか発電機での電球で、水は離れた川から車で汲に行く野外キャンプのような生活だった。食事は地元の女性のお手伝いが作り、事務所の会議室兼食堂で一緒に食べていた。

 この共同生活の中、幸い自分は国際赤十字から借りた難民用の広さ三畳ほどのテントで一人寝ていた。パキスタン製のキャンバス地の緊急援助用のテントは保温性がほとんどなく、標高2,000メートル近いンガラの朝晩はかなり冷え込み、お世辞にも快適とはいえなかった。中にシングルベッド1台と難民が収入向上プロジェクトで作った小さな棚があるだけだったが、それでもプライバシーがあるだけマシだった。

 荷台から荷物を降ろし、私物をテントに放り込むと木製の事務所のドアを開けた。
 入ってすぐの事務所ではベンが電話で誰かとスワヒリ語でしていた。自分に気付くや右手で待つようにという仕草をした。
 事務所のソファーに座り電話が終わるのを待った。
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