5.ダルエス・サラームの夕焼け
文字数 2,626文字
1993年8月5日木曜日、午後6時
タンザニア、ダルエス・サラーム、キリマンジャロ・ホテル
キリマンジャロ・ホテルは、ダルエス・サラーム港に面した風景の素晴らしい場所に建っていた。風格がありながら長引く債務危機による資金不足なのか、アフリカの国営企業によくある放漫経営からなのか、五つ星ホテルとは思えない荒廃ぶりで、エレベーターも止まっていた。
徒歩で屋上まで上ると、クミさんは窓際のテラス席に座っていた。
自分に気付き右手を上げ合図をした。
「お久しぶりです、クミさん。素晴らしい眺めですね」
辺りを見渡し椅子に座る。
近づいたウェイターに冷えたサファリラガーを頼んだ。
インド洋に大きな夕陽が沈んでいく。
「Cheers、乾杯。岡田君、元気そうで何より」 カチンとグラスを合わせた。
「その節は……」 と、言いかけて口ごもった。迷惑がかかっているかもと思い、心苦しかったからだ。
「ハクナマタタ、気にしないでいいのよ」 ミキから大体のことは聞いているようだ。
「私のところなんてそんなの日常茶飯事。もっと酷いことが起きてるんだから」
あっけらかんとした口調とは裏腹に彼女の顔が一瞬曇った。
「何がそんなに酷いんですか?」 驚いて聞き返した。
「最近、こっちではHIV・AIDSの感染が爆発的に広がっているの。親が亡くなり残された子供はストリートチルドレンになり、性的搾取の被害を受けるケースが急増しているのよ」
彼女によると、ダルエス・サラームやケニアのモンバサなどの歓楽街で働く女性がHIVに感染し、AIDSを発症して子供と村に帰って亡くなり、子供が孤児になることが多いという。母子感染する子供も多く、クミさんは身寄りがない子供のための孤児院を新設する準備をしているという。
それにしてもアフリカのHIV・AIDSの問題は深刻さを増していた。
「ザンビアの難民キャンプの状況からは想像出来ないです」
置かれた状況の違いに驚いた。
「アフリカは問題山積よ」 そう彼女は言いながら咳き込んだ。
「大丈夫ですか。続いているなら医者に診てもらった方がいいですよ」
資金難で子供病院の経営に苦労しているとは聞いていた。
「もちろん。今こうやって医者に診てもらっているじゃない」
彼女が悪戯っぽく笑った。
「そんな……」 彼女の突然の冗談に答えを窮した。
しばらく間が空き、ビールを口に含んで彼女が口を開いた。
「それで、これからどうするの? 日本に帰るの?」
「何も決めていません。帰っても帰らなくてもどっちでもいいんです」
今の自分には将来への展望など全くなかった。
「それはいいけど、あの子を救えたと思っているでしょ?」
突如の直球に凍った。完全な図星だった。
構わず彼女が続ける。
「そんなの傲慢よ。アフリカには何万、何十万の彼女のような救われない命があるんだから。それはどうするの? 自分には関係ない? 彼女一人救えなかったから人生終わったって絶望するの? それとも全員救うの?」 たたみかけるように言う。
「そんなことないです。ひたすら自分の無力を痛感するだけで……」 後は何も言えなかった。
「だから傲慢だって言われるのよ。そんなに救いたかったなら、なんでもっと勉強して実力付けて来なかったの? アフリカなら自分みたいなペーペーでも何とかなるとか思ってなかった?」 核心を突いた彼女の言葉に何も返せなかった。
彼女の言うようにインターン上がりでもアフリカだったら大丈夫だろうとどこかで高を括っていた。難民キャンプでボランティアがしましたなんて言えればカッコいい、なんて思っていなかったか。
そもそも、あの夜の「事故」を忘れたかったからではないのか。
「そんなことはないですが……」 また何か言って見透かされるのが怖かった。
「ザンビアではすごく勉強になりました。まだやらなければいけないことが山ほどあると分かっただけでも」 何とか言葉になった。
「そう。それでいいのよ。私だってアフリカで何年働いても無力さを感じることが多いわ。大切なのは諦めないこと。学び続けること。あなたはこれでアフリカに大きな借りを作ったのよ。難民の少女を救えなかった。でも、今度はもっと助けられるように成長しなさい。それがあなたの使命で…」 彼女がまた咳き込んだ。
「クミさん、本当に大丈夫ですか」 会話に熱が入るのはいいが、気になった。
「いい? アフリカで何かを学んだのなら、いつかそれをきちんと返しなさい。それが出来ないのは一方的で、西欧人と同じよ。奪うだけ奪って何も返さない。飢餓や戦争があるとお得意の人道だとか何とか言って大手を振ってやって来るけど、根本は何も変えようとしないわ」
彼女の言葉に圧倒された。
『根本は変えない』
アフリカを覆う矛盾がこの一言に集約されていた。独立して発展しようとしても別な形で妨げ支配し続ける。形を変えた植民地主義、それがアフリカの本当の意味での発展を止め、問題を生み出しているというのだ。
「ただ、今の自分は迷路の中にいるようで分からないんです」
あの夜から難民キャンプの中を彷徨 っている気がした。
「『アフリカの水を飲んだ者は、またアフリカに戻る』という言葉、聞いたことある?」
クミさんが言った。
「初めて聞きました」
「君がまたアフリカに戻ってくる運命にあるということよ!」 と、また悪戯っぽく笑った。
「いいから、とにかく、前を向いて進みなさい」 彼女がピシャリと言った。
「さて、以上で先輩のアドバイスは終わり。さあ、ビールを飲みましょう!」
そう言って彼女は手持ち無沙汰に座っているウェイターに向かって空のグラスを振った。
「ナオンバ、ビアバリディ。冷たいビールをお願い!」 空席の目立つバーに彼女の声が響いた。
アフリカでは冷たいビールは体に悪いとされ、何も言わないと温いビールが出た。真っ先に「ナオンバ、ビアバリディ、冷たいビールをお願いします」 というスワヒリ語を覚えた。
クミさんが泊まっていたホテルの前で別れ、ビールで火照った体を夜風で冷まそうと宿まで歩いた。夜道を歩きながら彼女が言っていたことを考えた。
どうやったら借りを返せるのだろうか、と。
その後はアフリカと東南アジアをバックパックであてもなくうろつき、タイのバンコク経由で帰国したのは1994年も明けてしばらく経ってのことだった。
日本の冬はしばらく熱帯で暮らした身にこたえた。
タンザニア、ダルエス・サラーム、キリマンジャロ・ホテル
キリマンジャロ・ホテルは、ダルエス・サラーム港に面した風景の素晴らしい場所に建っていた。風格がありながら長引く債務危機による資金不足なのか、アフリカの国営企業によくある放漫経営からなのか、五つ星ホテルとは思えない荒廃ぶりで、エレベーターも止まっていた。
徒歩で屋上まで上ると、クミさんは窓際のテラス席に座っていた。
自分に気付き右手を上げ合図をした。
「お久しぶりです、クミさん。素晴らしい眺めですね」
辺りを見渡し椅子に座る。
近づいたウェイターに冷えたサファリラガーを頼んだ。
インド洋に大きな夕陽が沈んでいく。
「Cheers、乾杯。岡田君、元気そうで何より」 カチンとグラスを合わせた。
「その節は……」 と、言いかけて口ごもった。迷惑がかかっているかもと思い、心苦しかったからだ。
「ハクナマタタ、気にしないでいいのよ」 ミキから大体のことは聞いているようだ。
「私のところなんてそんなの日常茶飯事。もっと酷いことが起きてるんだから」
あっけらかんとした口調とは裏腹に彼女の顔が一瞬曇った。
「何がそんなに酷いんですか?」 驚いて聞き返した。
「最近、こっちではHIV・AIDSの感染が爆発的に広がっているの。親が亡くなり残された子供はストリートチルドレンになり、性的搾取の被害を受けるケースが急増しているのよ」
彼女によると、ダルエス・サラームやケニアのモンバサなどの歓楽街で働く女性がHIVに感染し、AIDSを発症して子供と村に帰って亡くなり、子供が孤児になることが多いという。母子感染する子供も多く、クミさんは身寄りがない子供のための孤児院を新設する準備をしているという。
それにしてもアフリカのHIV・AIDSの問題は深刻さを増していた。
「ザンビアの難民キャンプの状況からは想像出来ないです」
置かれた状況の違いに驚いた。
「アフリカは問題山積よ」 そう彼女は言いながら咳き込んだ。
「大丈夫ですか。続いているなら医者に診てもらった方がいいですよ」
資金難で子供病院の経営に苦労しているとは聞いていた。
「もちろん。今こうやって医者に診てもらっているじゃない」
彼女が悪戯っぽく笑った。
「そんな……」 彼女の突然の冗談に答えを窮した。
しばらく間が空き、ビールを口に含んで彼女が口を開いた。
「それで、これからどうするの? 日本に帰るの?」
「何も決めていません。帰っても帰らなくてもどっちでもいいんです」
今の自分には将来への展望など全くなかった。
「それはいいけど、あの子を救えたと思っているでしょ?」
突如の直球に凍った。完全な図星だった。
構わず彼女が続ける。
「そんなの傲慢よ。アフリカには何万、何十万の彼女のような救われない命があるんだから。それはどうするの? 自分には関係ない? 彼女一人救えなかったから人生終わったって絶望するの? それとも全員救うの?」 たたみかけるように言う。
「そんなことないです。ひたすら自分の無力を痛感するだけで……」 後は何も言えなかった。
「だから傲慢だって言われるのよ。そんなに救いたかったなら、なんでもっと勉強して実力付けて来なかったの? アフリカなら自分みたいなペーペーでも何とかなるとか思ってなかった?」 核心を突いた彼女の言葉に何も返せなかった。
彼女の言うようにインターン上がりでもアフリカだったら大丈夫だろうとどこかで高を括っていた。難民キャンプでボランティアがしましたなんて言えればカッコいい、なんて思っていなかったか。
そもそも、あの夜の「事故」を忘れたかったからではないのか。
「そんなことはないですが……」 また何か言って見透かされるのが怖かった。
「ザンビアではすごく勉強になりました。まだやらなければいけないことが山ほどあると分かっただけでも」 何とか言葉になった。
「そう。それでいいのよ。私だってアフリカで何年働いても無力さを感じることが多いわ。大切なのは諦めないこと。学び続けること。あなたはこれでアフリカに大きな借りを作ったのよ。難民の少女を救えなかった。でも、今度はもっと助けられるように成長しなさい。それがあなたの使命で…」 彼女がまた咳き込んだ。
「クミさん、本当に大丈夫ですか」 会話に熱が入るのはいいが、気になった。
「いい? アフリカで何かを学んだのなら、いつかそれをきちんと返しなさい。それが出来ないのは一方的で、西欧人と同じよ。奪うだけ奪って何も返さない。飢餓や戦争があるとお得意の人道だとか何とか言って大手を振ってやって来るけど、根本は何も変えようとしないわ」
彼女の言葉に圧倒された。
『根本は変えない』
アフリカを覆う矛盾がこの一言に集約されていた。独立して発展しようとしても別な形で妨げ支配し続ける。形を変えた植民地主義、それがアフリカの本当の意味での発展を止め、問題を生み出しているというのだ。
「ただ、今の自分は迷路の中にいるようで分からないんです」
あの夜から難民キャンプの中を
「『アフリカの水を飲んだ者は、またアフリカに戻る』という言葉、聞いたことある?」
クミさんが言った。
「初めて聞きました」
「君がまたアフリカに戻ってくる運命にあるということよ!」 と、また悪戯っぽく笑った。
「いいから、とにかく、前を向いて進みなさい」 彼女がピシャリと言った。
「さて、以上で先輩のアドバイスは終わり。さあ、ビールを飲みましょう!」
そう言って彼女は手持ち無沙汰に座っているウェイターに向かって空のグラスを振った。
「ナオンバ、ビアバリディ。冷たいビールをお願い!」 空席の目立つバーに彼女の声が響いた。
アフリカでは冷たいビールは体に悪いとされ、何も言わないと温いビールが出た。真っ先に「ナオンバ、ビアバリディ、冷たいビールをお願いします」 というスワヒリ語を覚えた。
クミさんが泊まっていたホテルの前で別れ、ビールで火照った体を夜風で冷まそうと宿まで歩いた。夜道を歩きながら彼女が言っていたことを考えた。
どうやったら借りを返せるのだろうか、と。
その後はアフリカと東南アジアをバックパックであてもなくうろつき、タイのバンコク経由で帰国したのは1994年も明けてしばらく経ってのことだった。
日本の冬はしばらく熱帯で暮らした身にこたえた。