36. 人道支援現場での日常

文字数 1,391文字

1994年6月26日日曜日、午後3時
ACESンガラ事務所
 
 暴動の後、それがガス抜きになったのか、キャンプではしばらく落ち着いた日が続いた。
 この日曜はキャンプでの仕事の後、ンガラ事務所で身の回りのことをしていた。とは言え、もやることは大してなく、返事がいつになるのか分からない手紙を書くか、石鹸とか日用品を近くの市場に買いに行くぐらいだった。

 返事がいつになるか分からないのは、相手が筆不精ということではなく、アフリカの奥地から日本に手紙が着き返事を出しても、本当に届くか分からないからだった。ンガラに来て二カ月以上が経ったが、まだ誰からも返事は来ていなかった。

 ザンビアの難民キャンプにいたときは、エアメールでも日本に届くのに1か月、またザンビアに届くにはなぜか倍の2か月はかかり、返事が届くのに最低3か月近くかかり、タイムカプセルを開けて中の手紙を読むような感じだった。とはいえ、日本から手書きの手紙をもらうことは嬉しいものだった。

 人道支援の現場でのストレスは非常に大きい。
 そのストレスの多くは、家族や友人から遠く離れているということも大きい。手紙のやり取りに数カ月かかり、たまに日本に国際電話をかけても通信状態が悪く「もしもし? 聞こえますか?」だけで、ほとんど会話も出来ずに高額な電話代がかかり、滅多にかけられなかったからだ。

 しかも、宿舎は大体相部屋でプライバシーらしいものはない。当然、精神的に滅入る人も多かった。ストレスと孤独から酒に逃げる国際スタッフも多い。
 会議に出て朝から酒臭い息をしている人に何度も出くわした。

 もちろん、「現地調達」という援助関係者も多かった。土曜の夜の無線交信はそうした交信で忙しい。通常、共通の呼び出しチャンネルから別のチャンネルに切り替えるが、みなその通話を傍受し、誰と誰が付き合っているかは公然の秘密だった。

 それでも、国連や国際NGOの職員はR&R(Rest & Recuperation、休暇と回復)と呼ばれる1週間の滞在費付き有給休暇制度があり2か月に1回程度、ケニアのナイロビやビーチ・リゾートがあるモンバサやタンザニア沖合にあるザンジバル島などに出かけていた。

 しかし、ACESのような貧乏団体にはそんな余裕はないので、時々ナイロビやダルエス・サラームへの出張を週末に合わせ、少し長めに休む程度だった。それでも難民キャンプのストレスの多い生活から少し解放され、束の間の気分転換になった。
 その際、決まって食べるのがシーフードだった。特にダルエス・サラームは新鮮で美味しい魚介類料理を出す店もあり、海沿いのイタリアンでのイセエビのパスタは絶品だった。


 夕方になり、日曜日の定例の散歩に出かけた。
 事務所へ続く最後の坂道を上る途中、遠くブルンディの方面の丘を見つめているステイシーが目に入った。

「ステイシー、寒くなるよ」 日が暮れると急に気温が下がったので声を掛けた。
「うん、大丈夫。すぐ戻るから」 ステイシーは泣声だった。
 この前のベナコ・キャンプのことが尾を引いているのだろうか。
「分かった」 と、言って残りの道を急いだ。

 過去にブルンディのブジュンブラにいたと言っていたのを思い出した。それと、今彼女がブルンディの方向を見て泣いているのとどう関係するのか気になったが、以前の教訓からプライバシーに立ち入るのは避けた。

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