12.膨張を続ける難民キャンプ

文字数 1,310文字


   (ルコレ・キャンプから新しいムスフラ・ヒルズ・キャンプに移動する難民、1994年9月)

1994年、9月5日月曜日 
ルコレ・キャンプ

 9月になってンガラにある難民キャンプ全体の人口がついに50万人を突破した。このため、一部を早く新しいキャンプに移す計画が本格化した。
 懸念されていたベナコの水源の枯渇が進み、水不足が深刻になったのが一番の要因だ。キャンプでの一日一人あたり8リットル供給する目標が、現在は5リットル以下にまで減り、飲料水分2リットルを差し引くと残り6リットルで炊事、洗濯、行水など生活の全てを賄うのは不可能だ。
 水の豊富な日本で一人の1日の水使用量が平均200~300リットルということを考えても、それは余りにも少ない。
 緊急にタンクローリーで付近の川からも水を運んだが、増えすぎた難民人口にはまさに焼け石に水で、深刻な水不足は解消する見込みがなかった。
 

 ACES担当のルコレ・キャンプではブルンディ難民も多く、フツ人強硬派が完全に支配するベナコより問題は少なかった。しかし、水の供給の大部分はベナコの水源からのタンクローリー輸送に頼っていたので、給水が間に合わず給水出来ない日も増えた。
 
 それは他のキャンプも同じだったが、こうした事態もフツ人強硬派は利用した。水場に強硬派の男たちを配置し、彼らに忠誠を誓う難民には水を優先的に与え、そうでない者には与えないという妨害工作を始める。
 強硬派から分離させ、分散させるためにも新しいキャンプサイトの開発が必要だった。

 UNHCRの規則では難民の安全確保のため、キャンプは国境から50キロ以上離れていることが求められていた。だが、新しいキャンプの候補地として上がった地域にはタンザニア政府が金やダイヤモンド鉱山の開発計画を進めており、なかなか実現しそうになかった。

 その結果、水を求めて自主的にベナコに近い丘に移り住むルコレの難民も出た。かなりの難民がそれに続き、二つのキャンプの間に自然発生的にムスフラ・ヒルズという新キャンプが成立した。

 ルコレでの難民も増えるにつれ、ステイシーがはじめた教育支援事業も拡大した。午前と午後の二部制だけでは追い付かなくなり、新たに校舎を建設する事業計画がUNHCRによって承認された。この頃にはタンザニア政府も別カリキュラムでの学校を例外的に認めるようになった。
 また、ACESではジェノサイドを経験した社会において、新しい国づくりには次世代を担う子供の教育、女性の教育などフツ人社会の変化も必要と認識して積極的に取り組み出した。
 これらの学校を拡大し、同時に難民女性に対する洋裁や編み物を教える職業訓練も行うことも決まり、その準備も始めた。

 自分は資機材の調達と、校舎の建築準備で慌ただしくなり、ナイロビとの往復が増えた。
 この前から多くの患者を設備の整った他の国際NGOの病院に送れるようになる連携も進み、医師としては完全に開店休業状態だった。しかし、命を救うことの大事さにも増して、教育や職業訓練支援が難民の暮らしや生き方に直接変化を与えることも目の当たりにし、関わることに大きな意義を感じるようになっていた。

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