7. 再びアフリカへ

文字数 2,545文字

1994年2月22日火曜曜日、午前10時
成田空港第2ターミナル

 搭乗したパキスタン航空は外国人出稼ぎ労働者や貧乏旅行をする人間では安さで重宝されていた。南回りの経路も成田の後はフィリピンのマニラ、タイのバンコク、パキスタンのカラチと、外国人出稼ぎ労働者が多い国々を結んでいた。
 ヨーロッパや北米へ向かう北回りの便とは違った、途上国の生活感溢れる南回り便は独特の雰囲気を持っていた。

 満席の機内は国に戻る外国人労働者と水商売で働く女性たちで騒がしい。タガログ語、タイ語、ウルドゥー語など様々な言語が飛び交い、彼らから立ち上るスパイスと、ツンとする体臭の混ざった匂いは既に異国だった。
 そして、誰もが国で待つ家族へのものであろう、大量のお土産を抱えていた。

 自分には待つ人も土産もない。妙に場違いな感じがした。
 機内サービスの酒でも飲んでずっと寝ようかと思ったが、パキスタンはイスラム教国なので酒類は出なかった。仕方なく目をつぶるとそのまま寝入った。
 
 満席のフライトはマニラ、バンコクと止まり、その度に多くの乗客が入れ変わる。成田から一緒だった隣の濃い顎髭のパキスタン人は日本から中古車を買い付けに半年に一度、来日していると言った。
 丁寧に使われ、よく整備された日本の中古車は程度が良く途上国で人気が高い。それにパキスタンは元イギリス植民地なので同じ右ハンドルだからそのまま乗れた。
 アフリカでも日本の中古車は人気だった。塗装もそのままのバスやトラックが走っていた。何を運んでいたかは知らなかったが、ザンビアでは中古のネコのマークの宅配トラックがルサカ市内を走っていたのは微笑ましかった。ダルエス・サラーム市内ではどこに行くのか、大阪の「千里丘」と表示のあるバスが走っていた。

 カラチで飛行機をナイロビ行きに乗り換えた。中東のドバイを経由してナイロビに着いた時には出発してからほぼ丸一日が過ぎていた。

 ナイロビでチェックインした「680、シックスエイティー・ホテル」と呼ばれるダウンタウン近くの中級ホテルは値段がリーズナブルで各国の旅行者から人気だった。なぜか一階に「赤坂」というお世辞にもそれほど美味いとはいえない日本食店があった。

 次の朝、ダルエス・サラーム行きのタンザニア航空の737型機に乗り込む。垂直尾翼に大きなキリンが描かれているのが特徴だった。

 民族衣装をあしらった鮮やかな色の制服のスチュワーデスから機内食として渡された紙の箱の中身は小さなバナナが一本にロールパン一個と丸いパックの水という、国際線としては貧相な機内食だった。しかし、一時間半のフライトでは雪を頂上に抱いたアフリカ最高峰のキリマンジャロ山と四番目の高さのメルー山が連なる絶景が見られ、その侘しさを忘れさせた。
 
 クミさんの眠るビクトリア湖南端の町、ムワンザへもタンザニア航空の国内線で飛んだ。前日乗ったナイロビからのフライトと同じ機体だった。ガラガラの機内で席も同じだったことは驚きより、意図的なものを感じた。外国人ということで、静かで眺めの良い前方席を指定してくれたのだろう。
 ビクトリア湖はアフリカ最大の湖でナイル河最大の水源でもある。この湖の水がウガンダ、スーダンにエジプト、果ては地中海まで流れていると思うとこの大陸の大きさに驚くばかりだった。

 小雨のぱらつく中、湖近くの宿に部屋を取った。何もない薄暗い白熱灯だけがぶら下がった天井を見ながら小型の短波ラジオを点け、BBCの国際放送を聞いた。相変わらず旧ユーゴスラビアでの紛争がトップニュースで、長引く悲惨な内戦を時差でボンヤリした頭で思い浮かべた。

 朝になり、チャイとチャパティの朝食の後、子供病院に向かった。
「ジャパニ、日本人の子供病院はどこですか?」 と、聞けば誰もが方角を指差して教えてくれた。それほどクミさんの活動は地元に受け入れられていたのだろう。

 ビクトリア湖に面した丘にある子供病院は資金が途絶えたのか、管理する人がいなくなったのか、閉鎖されていた。何かを取りに来たのか、元スタッフらしい女性がいた。クミさんの友達で日本から来たというと驚くも快く中を案内してくれた。
 
 病室は荒らされて医療器具らしいもの何もなかった。疑念を察知したのか彼女は給料の支払いがなく、たまに様子を見に来ていると言った。それでは盗難に遭うのは当然だろう。

 アフリカでは外国からの援助で病院や学校など様々な施設が建設されている。しかし、一度資金が止まると全てが止まる。患者が病気だろうが生徒が学業の途中だろうが同じことが繰り返されていた。アフリカでは放棄された多くの援助による施設を目にした。

 クミさんはそうならないように自立出来るよう奮闘していた。なのに、前触れのない死。この病院の状況を見たらどれだけ彼女が悔しがるかが想像出来、一層悲しくなった。

 隣の建物も見せてもらった。彼女の開設しようとしていた孤児院だった。建設途中で壁のペンキも一部しか塗られていない。追悼式が行われたのか、彼女の大きな写真が壁に掲げられ、周りは造花が飾られていた。子供を抱いた彼女の日焼けした笑顔が大変ながらもここでの充実した日々を物語る。

 去り際に女性にクミさんのお墓の場所を知らないか尋ねると、近くの丘だと言って案内してくれた。そこはビクトリア湖に面する墓地だった。彼女ら夫婦二人の墓地の区画には誰が手向けた花束が枯れたままあった。
 クミさんと彼女のタンザニア人の夫の墓石が並び、二つの墓誌の日付は2年余りしか違わなかった。まるで夫を追うように逝ったクミさん、彼女の咳と急に悪化したマラリア、そして彼女が最後に実現しようとしたあの孤児院。
 全てが重なった気がした。彼女は自分に迫りくる死を予見して孤児院の開設に心血を注いだのだろう。

 花を替えながら心の支えを失ったように悲しみと、大きな寂しさで溢れた。
 別れ際、女性には病院をきれいにして欲しいと頼み、100ドル紙幣を渡した。
 彼女から満面の笑みがこぼれた。

 午後のフライトでダルエス・サラームに戻った。
「前へ進みなさい」 クミさんの言ったことを考えていた。
 機窓から入るビクトリア湖の湖面に鏡のように反射した太陽の光が眩しい。
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