6.アフリカ・エイズ街道
文字数 2,213文字
1994年8月2日火曜日、午後1時
タンザニア北部
ベナコを越えて北上すると、乾燥したサバンナの風景が続き出す。道は舗装されていたが穴だらけになった。アンワルはうまく大きく開いた穴を避けながらかなりのスピードで進む。
昼にはニャカヤンジャという小さな町に到着し、給油と食堂で茹でた茶色の豆を油っぽい白飯にかけた簡単な昼食を取った。
この町の後は全くといっていいほど車両を見かけなくなった。その反対に道は細くなったが、大きな穴がなくなった。
しばらくすると、カラグゥエという町でルワンダ国境に向かう西への道との分岐点を通過した。ルワンダ方面への道は、途中にある新しく出来たルワンダ難民のキャンプへと続いている。
その町の入口には幾つかの国際NGOの看板が出ていた。事務所の前には団体のロゴの入ったランドクルーザーも停まっている。よくもこんな奥地まで、と思いザンビアの難民キャンプを思い返した。あそこも遠かったが、ここもそれに劣らないほどの辺境の地だ。
そして道は、ビクトリア湖の西岸の町ブコバへ通じる道と分かれたが、そのまま北上を続ける。地形が平らになり、木も少なく灌木が多くなる。砂混じりの乾燥した土地だ。
外気温は40℃近く、灼熱の太陽の下、往来は全くない。
砂塵を上げて進むわれわれの二台の車だけだった。
それから二時間ほど走って次の町に着いた。キャーカだった。この町は1978年、独裁者と悪名を馳せたウガンダのアミン大統領時代に勃発したウガンダ・タンザニア戦争の激戦地だった。国境のカゲラ川にかかる橋も破壊されたままだ。
町の教会の尖塔は砲撃により大きく崩れ落ちている。戦後、20年近く経っても戦いの跡がそのままに痛々しく残っていた。
ウガンダ軍の侵攻によって始まったこの戦争で、タンザニアは緒戦ではかなりウガンダ軍に侵入された。侵攻理由はタンザニアがウガンダ国内の反政府勢力を支援しているということだった。
後に現在のウガンダ大統領となるムセヴェニはタンザニア軍と共にアミン政権に反対するタンザニアに逃れたウガンダ難民と、ウガンダに逃れたルワンダ難民などで編成された部隊で戦う。
タンザニア軍はこの戦争にどうにか勝利するも、この戦いによって最貧国タンザニアの経済は大きな打撃を受け、その後の経済発展の遅れにつながった虚しい戦争でもあった。
タンザニアとウガンダの国境のムトゥクラは日本の交番よりも小さな事務所があるだけの何も無い寂れた場所だった。例の戦争のせいか、この地域での両国の人的交流、経済交流はほとんどないようだった。
タンザニアからウガンダ側の国境事務所まではかなりの距離があった。10 分ぐらい両脇を背の高いアシのような草が茂る道路が続き、やがて道が広がると白と黒に塗られた遮断機が下りて通行を止めていた。これがウガンダ国境らしい。
遮断機の奥にあるアフリカで良く見るブリキで出来た小さなプレハブの国境事務所で入国手続きをした。その場でビザ代金15ドルを払い、入国スタンプが押された。
ウガンダに入国した瞬間だった。
そこからは良く舗装された道路が続いた。緩やかな下り坂が続き、大型トラックの通行が増えてくる。目的地のムバララまでは問題なく行けそうだ。
この道路はケニアのインド洋に面する港町、モンバサから続いている。別名「エイズ街道」とも呼ばれていた。エイズがこの街道に沿って蔓延したためだ。
アフリカの多くの国では鉄道など公共交通が発達しておらず、トラックの荷物の上に人を乗せて走る場面をよく目にする。それがトラック運転手の良い小遣い稼ぎになっていた。加えて運転手はトラックの燃料や積み荷を抜き取って横流しもするという。雇い主には頭痛の種だが、その分運転手の羽振りはすこぶるいい。
街道沿いの町にはこうした運転手相手のバーと宿が何軒も連ねる。バーでは音の割れたスピーカーからがなり立つアフリカで人気のザイール・ルンバの下で店にいる女性と交渉が行われる。話しがまとまれば近くの宿か女性の部屋で一夜を過ごす。そして、避妊具を使わないのが普通だった。
こうして街道沿いにエイズが伝播したという。同じような街道はタンザニアのダルエス・サラームとザンビアのルサカとの間にもあり、そこでもエイズが蔓延している。無軌道な運転手たちの生き方も彼らの厳しい職場環境にも一因があるかもしれない。
アフリカの夜間の街道は完全な無法地帯だ。片方のライトがなく、ブレーキの利きの悪い整備不良のバスやトラックが街道を高速で爆走する。積み荷やバスの乗客を狙った強盗に襲われないようにするためだ。そのために事故も多発する。バスがカーブを曲がり切れずに崖から落ちて大勢の乗客が犠牲になることはよくあった。
この日はムバララ郊外の湖畔にあるホテルに泊まった。そのレストランでは久しぶりにまともなステーキを食べた。冷えた苦みの利いたビール、ウガンダ産のナイル・スペシャルを飲むと朝から500キロにも及ぶ行程で乾いた喉にグッと沁みた。
部屋のテレビではCNNがザイールのゴマに流入したルワンダ難民の惨状を報じていた。コレラのまん延でこれまでに数万人が死亡したという。感染防止のためなのか、運搬手段がないためなのか死体がブルドーザーで運ばれている。そこには人間の尊厳は一切なかった。
ンガラのキャンプの難民の状態との大きな落差に暗然とした。
タンザニア北部
ベナコを越えて北上すると、乾燥したサバンナの風景が続き出す。道は舗装されていたが穴だらけになった。アンワルはうまく大きく開いた穴を避けながらかなりのスピードで進む。
昼にはニャカヤンジャという小さな町に到着し、給油と食堂で茹でた茶色の豆を油っぽい白飯にかけた簡単な昼食を取った。
この町の後は全くといっていいほど車両を見かけなくなった。その反対に道は細くなったが、大きな穴がなくなった。
しばらくすると、カラグゥエという町でルワンダ国境に向かう西への道との分岐点を通過した。ルワンダ方面への道は、途中にある新しく出来たルワンダ難民のキャンプへと続いている。
その町の入口には幾つかの国際NGOの看板が出ていた。事務所の前には団体のロゴの入ったランドクルーザーも停まっている。よくもこんな奥地まで、と思いザンビアの難民キャンプを思い返した。あそこも遠かったが、ここもそれに劣らないほどの辺境の地だ。
そして道は、ビクトリア湖の西岸の町ブコバへ通じる道と分かれたが、そのまま北上を続ける。地形が平らになり、木も少なく灌木が多くなる。砂混じりの乾燥した土地だ。
外気温は40℃近く、灼熱の太陽の下、往来は全くない。
砂塵を上げて進むわれわれの二台の車だけだった。
それから二時間ほど走って次の町に着いた。キャーカだった。この町は1978年、独裁者と悪名を馳せたウガンダのアミン大統領時代に勃発したウガンダ・タンザニア戦争の激戦地だった。国境のカゲラ川にかかる橋も破壊されたままだ。
町の教会の尖塔は砲撃により大きく崩れ落ちている。戦後、20年近く経っても戦いの跡がそのままに痛々しく残っていた。
ウガンダ軍の侵攻によって始まったこの戦争で、タンザニアは緒戦ではかなりウガンダ軍に侵入された。侵攻理由はタンザニアがウガンダ国内の反政府勢力を支援しているということだった。
後に現在のウガンダ大統領となるムセヴェニはタンザニア軍と共にアミン政権に反対するタンザニアに逃れたウガンダ難民と、ウガンダに逃れたルワンダ難民などで編成された部隊で戦う。
タンザニア軍はこの戦争にどうにか勝利するも、この戦いによって最貧国タンザニアの経済は大きな打撃を受け、その後の経済発展の遅れにつながった虚しい戦争でもあった。
タンザニアとウガンダの国境のムトゥクラは日本の交番よりも小さな事務所があるだけの何も無い寂れた場所だった。例の戦争のせいか、この地域での両国の人的交流、経済交流はほとんどないようだった。
タンザニアからウガンダ側の国境事務所まではかなりの距離があった。10 分ぐらい両脇を背の高いアシのような草が茂る道路が続き、やがて道が広がると白と黒に塗られた遮断機が下りて通行を止めていた。これがウガンダ国境らしい。
遮断機の奥にあるアフリカで良く見るブリキで出来た小さなプレハブの国境事務所で入国手続きをした。その場でビザ代金15ドルを払い、入国スタンプが押された。
ウガンダに入国した瞬間だった。
そこからは良く舗装された道路が続いた。緩やかな下り坂が続き、大型トラックの通行が増えてくる。目的地のムバララまでは問題なく行けそうだ。
この道路はケニアのインド洋に面する港町、モンバサから続いている。別名「エイズ街道」とも呼ばれていた。エイズがこの街道に沿って蔓延したためだ。
アフリカの多くの国では鉄道など公共交通が発達しておらず、トラックの荷物の上に人を乗せて走る場面をよく目にする。それがトラック運転手の良い小遣い稼ぎになっていた。加えて運転手はトラックの燃料や積み荷を抜き取って横流しもするという。雇い主には頭痛の種だが、その分運転手の羽振りはすこぶるいい。
街道沿いの町にはこうした運転手相手のバーと宿が何軒も連ねる。バーでは音の割れたスピーカーからがなり立つアフリカで人気のザイール・ルンバの下で店にいる女性と交渉が行われる。話しがまとまれば近くの宿か女性の部屋で一夜を過ごす。そして、避妊具を使わないのが普通だった。
こうして街道沿いにエイズが伝播したという。同じような街道はタンザニアのダルエス・サラームとザンビアのルサカとの間にもあり、そこでもエイズが蔓延している。無軌道な運転手たちの生き方も彼らの厳しい職場環境にも一因があるかもしれない。
アフリカの夜間の街道は完全な無法地帯だ。片方のライトがなく、ブレーキの利きの悪い整備不良のバスやトラックが街道を高速で爆走する。積み荷やバスの乗客を狙った強盗に襲われないようにするためだ。そのために事故も多発する。バスがカーブを曲がり切れずに崖から落ちて大勢の乗客が犠牲になることはよくあった。
この日はムバララ郊外の湖畔にあるホテルに泊まった。そのレストランでは久しぶりにまともなステーキを食べた。冷えた苦みの利いたビール、ウガンダ産のナイル・スペシャルを飲むと朝から500キロにも及ぶ行程で乾いた喉にグッと沁みた。
部屋のテレビではCNNがザイールのゴマに流入したルワンダ難民の惨状を報じていた。コレラのまん延でこれまでに数万人が死亡したという。感染防止のためなのか、運搬手段がないためなのか死体がブルドーザーで運ばれている。そこには人間の尊厳は一切なかった。
ンガラのキャンプの難民の状態との大きな落差に暗然とした。