10. タンザニアのブルンディ難民

文字数 2,348文字

1994年3月7日月曜日、午後12時
ナイロビ・ダウンタウン、ACESナイロビ本部事務所

 ベンがみなを見回し、一堂に告げた。
「では、本題に入ろう。今朝はンガラの難民キャンプから帰ったばかりのグレイスが現場報告をしてくれる。そして、今後のブルンディ難民支援事業について意見交換をしたい。では、グレイス」 そう言ってベンは彼女に場を預けた。

 グレイスが立ち上がりホワイトボードに歩み出た。赤い花柄を主体にしたアフリカのゆったりとした袖がチューリップのように広がった民族衣装を着た温かな雰囲気を醸し出す40代後半の、アフリカンママの絵のような女性だった。

 グレイスが説明を始めた。
「この人道支援オペレーションを始めて1か月ちょっと、私たちACESが担当するンガラ地区のルコレ・キャンプでは新たに千人のブルンディ難民を収容しました。これで8千人を超え、ブルンディ難民はベナコ・キャンプのブルンディ難民を合わせると3万人です。新しい難民の多くは女性と子供、老人ですが、健康状態はこれまでのブルンディ難民と比べて悪化しています。栄養不良だけでなく、外傷のある難民が多くなっているのも特徴です」 
 タンザニア北西部国境地帯のブルンディ難民キャンプの最新の状況をさらに続ける。

「外傷の多くは銃創とマシェティによるもので、ブルンディ全土で軍と警察の治安組織による組織的な暴力行為が民間人に対して行われていることが伺われます」 

 彼女が言うマシェティとは、蛮刀とも呼ばれるナタ程の大きさで分厚く、切るというよりは刃の重さでたたき切るという、ジャングルでよく見かける刃物だ。傷口は(えぐ)られたようになり治りにくく、傷跡は醜く残る。
 今ブルンディでは、そういったもので民間人が襲撃されているというのだ。ソルウェジのダニエル医師の後頭部の傷を思い出した。

「今後も首都のブジュンブラを中心にツチ人の治安組織によるフツ人市民への暴力は悪化するのは明白で、ブルンディ難民の流入がさらに予想されます。医療面での支援の急拡大が必要なのは現地の国連機関やNGOの一致した見解です」 と、グレイスが言って一旦間を置いた。 

 ベルギーの信託統治領だったブルンディは1962年の独立後も、信託統治時代と同様に少数派のツチ人が実権を握り、彼らが支配する軍と警察が改革を求める多数派のフツ人に対して暴行や拷問などの人権侵害を繰り返していた。その結果、長年にわたって内戦状態が続き、これまでに多くのフツ人が難民となり国を脱出していた。

 そして、やっと昨年1993年3月に独立後初の民主選挙が実施され、フツ人のメルシオル・ヌダダイエが初のフツ人出身大統領として選ばれた。だが、その後の10月に起きた軍のクーデターで暗殺される。
 クーデターそのものは多くのフツ人の抵抗で失敗したが、それから国内情勢が不安定化し、実質の内戦状態に陥った。その混乱から逃げるように多くのブルンディ難民が東隣りのタンザニアに流入し、昨年末にンガラでの人道支援が国連とNGOにより開始されていた。その医療支援の一端をACESが担っていた。

 ここまでブルンディ難民の状況がひっ迫しているとは知らなかった。これこそ人道支援だった。ザンビアの難民はキャンプで既に何年も暮らしていた難民が多く、このような緊張感や切迫感はなかった。
 結局、最後までグレイスの話を聞いていた。
 重々しい雰囲気が部屋を包み、抜け出す状態ではなかったからだ。

「アサンテ・サーナ、どうもありがとう、グレイス。これから忙しくなるな」 
 ベンがそう言うとみなが我に返った。

「グレイス、まずンガラのアンワルに連絡して、必要な医療物資のリストアップとロジの手配を進めてくれ。ジョセフ、君はナイロビの医薬品会社と薬局にあたって在庫を確認して欲しい」 
 ベンの指示は的確で、みなが一斉に動き出した。

「ベン、自分はジョセフと市内を回るよ」 
 会議の途中で抜けるつもりが、いつの間にかそう言っていた。
「ケン、それは助かる。ステイシー、君もいいかい?」 ベンが彼女に合流を促した。
 そうして自分はACESの活動に参加することになっていた。

      ***

 タクシーは事務所を出て20分後にナイロビ郊外の産業地区に入った。工場、倉庫や車のショールームが道路沿いに並ぶ。買い物リストにはかなりの種類の医薬品があり、どれだけ手に入るかは分からなかった。納入された先から売れる医薬品もあり、電話で発注とはいかないらしい。
 その後、乗ってきたタクシーに買った医薬品を次々に詰め込んでは事務所に送り、また別の医薬品会社に移動してタクシーに詰んでは送るという作業を繰り返した。

 三日がかりでリストの殆どの医薬品を揃えると、ACESの事務所は医薬品の倉庫と化した。これでキャンプのクリニックを二カ月は維持出来るという。

 金曜日の夜、最後の調達を終えると「ニャマ・チョマ」と呼ばれるバーベキューを食べに事務所のスタッフと出かけた。

 地元で人気の屋外レストランは家族連れや友人同士の若者でごった返していた。牛や羊の肉の塊がぶら下がった精肉コーナーで、キロ単位で買い別の焼き専門の場所に持っていき炭火でゆっくり焼いてもらう。
 焼けた肉と「ウガリ」という白いトウモロコシの粉を練って餅状になった主食が運ばれるまで1時間はかかる。それまでビールでこれからの門出を祝って待つ。

 ほどよく焼けた肉の塊に岩塩を付け、タスカーとホワイトキャップというケニア産のビールで流し込む。味は苦みの少ないラガーで飲みやすかった。自分は冷えたビールを頼んだが、アフリカ人スタッフは常温だった。
 大きな肉の塊が次々と減るのに比例し、空のビール瓶が次々にテーブル上に並んでいった。

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