1. 深夜の訪問者

文字数 2,491文字

1993年7月6日、火曜日午前2時30分 
ザンビア北西部州、メヘバ難民キャンプ
 
「ドン、ドン、ドン」
hodi!(ホディ) ごめんください!」 一心不乱にドア叩く音で目が覚めた。

『今夜もか……』 
 この一週間で3回目の急患だ。

 忌々しく思いながら胸の上の読みかけの文庫本を払い除け、腕時計を見る。午前2時半だった。いつの間にか眠り、灯油ランプは既に消えていた。ベッド脇に置いた懐中電灯を点け起き上がる。
 この2週間、ナースのミキは休暇で隣国のタンザニアで子供病院を運営する共通の友人のクミさんを訪ねていて、夜間の難民キャンプのクリニック兼事務所にスタッフは自分しかいなかった。

 急患といっても、また出産だろう。産気づいた妊婦の夫が医者を呼びに来ることがほとんどだったからだ。本来のアフリカの農村であれば産婆や出産経験のある女性が初産の女性を補助し、医者などよっぽどの難産でないと必要なかった。

 だが、それまでの伝統的共同体が崩れた難民キャンプではこうした知識は共有されず、陣痛に苦しむ妻の姿を目の当たりにした夫が、慌てふためいて助けを求めにクリニックまでやって来るということがしょっちゅう起きていた。

 キャンプ外れのこのクリニックまで歩いて来て、急いで車で産気づいた女性の家に向かっても大体着くころには無事出産していた。
 生まれたばかりの子供が泣き声を大きく上げ喜びが包む中にバツの悪そうに笑う夫が加わることがよくあった。

 戦争は社会を破壊する。それでも人はたくましく生きていくということを見せつけられる光景だった。

Por favor, doutor!(ポルファボール ドトール) 先生、お願いです !」 
 ドアを開けるとポルトガル語で悲鳴ともつかない懇願の声を上げたのはクリニックを手伝うアンゴラ難民のマリアだった。
 このザンビア北西部州のアンゴラとの国境に近いメヘバ難民キャンプにはアンゴラ難民が2万人以上いた。その他にもナミビア難民、モザンビーク難民、ザイール難民が暮らしていたが、どの国も長引く内戦で苦しんでおり、帰国の目途は立っていない。

 ここで一番多いアンゴラ難民の祖国アンゴラは、ポルトガルからの1975年の独立以降、ソ連の支援を受けた共産主義政権が西側の支援、特に南アフリカの支援を受ける反政府勢力との20年近い内戦にあり、約50万人の難民がザンビアなどに流出していた。

 マリアは内戦が拡大する前までは東部の都市の国立病院でナースをしていたが、反政府軍の攻撃に遭い、その際に両親と夫を失ったという。戦火を逃れ、娘と妹のリンダと三人で3年前に難民となってザンビアに逃げてきた。これまでの経験が役立ち、日本のNGOが運営するこの難民キャンプのクリニックを手伝っていた。

「マリア、一体どうした?」 夜中に彼女が来たのは初めてだった。
「ごめんなさい、ドトール。リンダの出血が止まらないんです」 
 彼女はそう言うと背負っていた毛布に包まれた妹を下ろした。

 懐中電灯を向けるとリンダの顔が浮かび上がった。その顔には表情はなく、血の気が失せていた。

 リンダは姉をとてもよく慕い、マリアの娘アデリーナを連れて時々クリニックに遊びに来た。仕事の後、マリアを彼らの暮らすテントまで車で送ると、テントから彼女が出て出迎えた。戦火を逃れるために国境を一緒に歩いて越えた姉妹の絆は強かった。

 すぐにクリニックの診療室に通し診察台に寝かせた。バイタルをチェックすると息は浅く心拍、血圧共にかなり低い。
 彼女の着ているチテンゲと呼ばれる色鮮やかな黄色だった腰巻は血でどす黒く染まっている。

「リンダ、聞こえるかい?」 
 リンダが小さく頷いた。

「ちょっと様子を診るよ」
 彼女の腰巻を解いた。
「最後の生理はいつだった?」 15、16歳の女の子に聞くのはためらわれたが、仕方ない。
 首を小さく振るだけなのは分からないのだと解釈した。

 彼女の大量出血は切迫流産が原因だろう。聴診器で胎児の心音を確認したが、状態はよく分からなかった。

「輸血が必要だ。マリア、今から州病院まで運ぼう」 

 キャンプから東に80キロ離れた北西部州・州都のソルウェジまで行くことにした。

このクリニックでは外傷とマラリアや感染症程度しか対応出来なかった。重症者は州立病院に運んでいたが、政府の予算不足は深刻で十分に機能していなかった。

「はい、ドトール」 彼女はそう言うと手早くクリニックにあったマットレスと毛布を外に駐車していたピックアップの荷台に載せ準備した。

 このころの夜の外の気温の気温は10度以下になることも多く、荷台ではしっかり保温をしないと助かる命も助からない。
 リンダを毛布でさらに巻き、荷台に載せ運転席に回る。

Vamos(バーモス)、行きましょう」 
 マリアが荷台から言うのが聞こえた。オンボロの20年もののトヨタランドクルーザーの冷え切ったディーゼルエンジンはオレンジ色の予熱グローランプが点くまで時間がかかる。

 ザンビア軍が駐屯するキャンプ入口のチェックポイントまでは未舗装の荒れた道が続く。それを出ると舗装道路になり、グッとスピードを上げる。左折するとアンゴラとザイールの国境まで約50キロ、右折すれば州立病院のあるソルウェジだった。
 その先は巨大な露天掘りの銅山群からなるコッパーベルトへと続く。ザンビアの主要輸出品は銅鉱石だったので銅鉱山を結ぶ道路はよく整備されていた。

 ピックアップを運転しながらハイビームのヘッドライトに反射する道路脇の多くの動物の目。多くの命が今にも消えゆく命を見守るかのようにこちらを向いていた。

 州立病院はキャンプからだとソルウェジに入る手前にあった。いつものように左手に折れて病院まで続く緩やかな坂を上る。奥の「Emergency」という救急外来の赤いサインが点いたり消えたりしている。
 「サムエル! 当直医は?」 
 窓ガラスを下ろし見知った夜警の老人に叫んだ。
 彼は目を開けることなく右手の親指で奥の分娩室の方を指さした。木箱に座り槍を支えに居眠りするかつての独立運動の戦士は夢でイギリス植民地軍との戦いの最中なのだろう。
 
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