1.ステイシーの死

文字数 1,985文字

1994年12月11日日曜日、午前5時
ドイツ赤十字病院、ベナコ・キャンプ


 周囲は暗く水の中を歩いていた。
 いつの間にか水は膝の高さまでになった。さらに深くなり流れに足を取られまいと、一歩一歩ゆっくり進む。

 前を見るとステイシーが歩いていた。腰の高さ近くにまでなった水をかき分け、必死に前に進んでいる。
 その先には薄暗い水面にはこんもりとしたボーっと明るい一帯があるのが見えた。
 ステイシーはあの光に向かっているようだ。
 自分も後を着いていく。 

 薄明るく盛り上がった丘のようなものに近づくにつれ、そこには人が集まっているのが分かった。集まる人の数が徐々に増えていく。なぜかその人たちが誰だか分かった。

 クミさんと彼女の夫、リンダが生まれたばかりの娘を抱いて一緒に立っていた。さらに、その横にはグレイスの妹、アナがいた。彼女の隣にはポールのツチ人使用人夫婦がいた。そして、大怪我をしたタバコ売りの少年の家族、そしてアランも。

 ステイシーに近寄り着いて行こうとした。
『ケン、来てはダメ!』 
 なぜか強いステイシーの声が頭の中でした。
 リンダも首を振っている。
『どうして? みんないるじゃないか!』 
 心の中で叫び、必死でついて行く。
『まだ、あなたにはやることが沢山あるわ。それまではだめ』
『君だって!』 また叫んだ。
『やっとあの子を見付けたの。ほら!』 
 ステイシーがラケルとアナの横に立つ女の子を指差した。

『ケン、ごめんなさい。早く行かないとアンジェに会えなくなるの』 
 ステイシーの痛切な声がした。
『駄目だよ。ンガラでみんなが待ってる』 
 行かないで欲しかった。

『あの丘には会いたかった人と会うために、そして(ゆる)しを求めてみなやって来るの』 
 そう言って彼女は歩き続ける。丘に立つ人影はさらに増えている。

『待って、行かないで。みんな死んだ人だ!』 と、必死に声を出した。 
 だが、彼女は無視してひたすら前に進む。

『ずっと一緒だ、と言ったじゃないか!』
 そう思って彼女の右腕に手をかけたその時だった。

「ゴーッ」と、いう音ともに突如強くなった流れに足をすくわれ水中に引き込まれた。
 濁流の渦の中をぐるぐると体が前後左右に回転する。
『苦しいっ!』
 息が出来ない。
 流れがさらに強くなる。
 その中を次々に黒い人影がボブスレーのようにビューっと流れ過ぎて行く。

 次の瞬間、目の前にカッと両目を開いた男の顔が現れた。
 頭が割られ、右半分がなかった。さっき見たポールの家のツチ人使用人だった。
 マシェティを手にしている

『私は大きなアボカドの木の下で、』 
 そのツチ人使用人が叫ぶ。

 そのまま男は手に持っていたマシェティを自分に向けて振り下ろした。
『殺された!』
「やめろっ!」 
 そう叫んだ瞬間、全身に激痛が走り暗闇に飲み込まれた。

         ***

「岡田先生!」 
 目を覚ますとナースウェアのミキが横にいた。
 近くの心電図モニターから音がしているので病院にいるようだ。

「彼女は?」 とっさに酸素マスク越しに声を出した。
 少し間が開いた。

 彼女の首がゆっくり左右に動くのが分かった。
 ステイシーが自分を止めた理由を理解した。
 絶望的な気持ちになって再び眠りに落ちた。

        ***

 どれだけ眠っていたのだろうか、目が覚めると病院内が慌ただしい。
 行ったり来たりするスタッフを横目にベッドの上の自分には何も出来ないのが歯がゆい。
 
 落ち着いたのかしばらくすると、処置を担当したドイツ人戦傷外科医が経過報告をしてくれた。まず、彼に謝意を告げる。

「ドクター・オカダ、そちらこそ大変でしたね。これがお二人の記録です」 
 そう言って渡された手術記録とレントゲンを確認した。自分は左肩への貫通銃創で、重傷ではあるが、幸いにも障害はないようだ。1週間日もすれば退院出来るという。

 ステイシーの状態はかなりひっ迫していたようだ。首を撃たれ左総頚動脈からの大量出血により、この病院に運ばれたときは意識不明の重体。輸血を含め懸命な救命措置が行われたが、間に合わなかったようだ。
 死因は失血死。摘出された銃弾は9ミリなので、ピストルとの見解だった。

 その後、日本人ナースが巡回で来たので、彼女にも礼を言った。
「当然です。それにミキさんは先輩ですから」 
 彼女はそう言った。クミさんともそうだったが、病院と看護大学の先輩後輩関係は強い。

 その後はベンの手が空いたのを見計らって経過報告をしてくれた。
 翌朝、ステイシーはナイロビまで国連機で移送され、その後はアメリカ大使館の手配により民間機の定期便で実家のあるアメリカ、コロラド州まで運ばれるという。
 ナイロビでの調整を考えてベンとチャールズが国連機で同行するということだった。

 ベッドにいる今の自分に出来ることは何もなさそうだと諦める他はなかった。
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