3.「アンジェ」-私の天使
文字数 3,128文字
1988年2月26日金曜日、午後3時
ブジュンブラ市内孤児院、ブルンディ
「ラケル、話があるけど、いい?」
ステイシーはついに思い余ってラケルに相談した。年齢も同じで、彼女が一番親身になってくれていたからだ。
それに彼女の伯父はアメリカで仕事をし、孤児院の再建にも協力してくれ、親近感を持っていた。
「ずっと分かっていたわ。黙っていてごめんなさい」
ラケルはずっと心配していたことを伝えた。だが、余計なことをしたくないと、ステイシーが自ら言い出すのを待っていたという。
そして、その後の対応は早かった。
まず、母子の状況を確認するために、産婦人科医を訪れた。
「妊娠8ヶ月24週で、順調です」 産婦人科医が安心するような口調で言った。
医師はアフリカではまだ珍しい女医だった。
ブルンディで初めての女医が誕生したのはたった5年前だった。
「そして、心音が二つ聞こえるので双子です」 女医が満面の笑顔で言った。
だが、その女医の笑顔はステイシーにとって逆に残酷だった。
これ以上、隠しおおせないと、スタッフにも自ら妊娠の件を伝えた。誰もがステイシーに協力的で、彼女を労わった。それに比してステイシーの苦悩は深まるばかりだった。
考えが行き詰まり、またラケルに相談すると、彼女は教会を通して出産後はどこかに養子に出せばいいと、教会を紹介してくれ引き取ってもらうことになった。
予期しない妊娠や不義の子など、中絶を禁じるカトリックが多いアフリカでは、教会が孤児院を運営して、養子縁組を行っていることが多かった。
そのまま聖職に就く孤児も多い。
だが、悲劇は終わらなかった。怪我で傷ついていた体に双子の妊娠と出産は過酷過ぎたのだ。異常出血によって早産を余儀なくされた。
大量出血で意識を失ったステイシーに女医は帝王切開を行い、母体は何とか救うことが出来た。一方の胎児は片方だけ助かり、生まれる。
だが、心理的ダメージが大きいと、ステイシーには知らされず、両方死産だったと伝えられる。生まれた方は、打ち合わせ通り養子に出された。
心身ともに疲れ果てた彼女は体力がアメリカまでのフライトに耐えられるまで回復すると、実家のアメリカ、コロラドに帰国した。まだ、雪の残る、春浅い3月末だった。
コロラドに戻ったステイシーはまるで抜け殻のような状態になり、家に閉じこもる。悲劇から立ち直りかけていた時に起きた不幸に肉体と精神が追い付けなかった。
ステイシーがやっと部屋から出られるようになったのは、再び暖かくなった翌年の春だった。やっと体力が回復したのだろう。
そして、終わらない後悔と逡巡に飽きたというのもあった。
また、国外に出たいと思った。どこかアメリカから離れ、アフリカからも遠いところへ行こう。ちょうど、平和部隊での経験を生かせる日本での公立学校での英語教師の募集が始まったことを知り応募した。
翌年から2年間、金沢市内の中学校で英語を教えることになった。
日本から帰国後、1992年の夏にコロラドに戻り地元の大学でブルンディのピグミー系のトゥワ人について研究するために大学院に進む。
ずっと避けようとしていたのに結局、アフリカに関わる道を選んでいた。
***
一年後の大学院2年目が始まった1993年10月下旬、ブルンディ初の民主選挙で選ばれたヌダダイエ大統領が軍事クーデターで暗殺されたということを報道で知る。
『あの時と同じ……』 ステイシーは妙な胸騒ぎを感じた。
結局、軍事クーデターは自体は失敗したものの、ツチ人で占められる軍部のフツ人への暴力行為はブルンディ全土に及び、これまでとは違う状況だった。
暗殺されたヌダダイエ大統領はフツ人初の大統領で、彼の就任により少数派のツチ人が抑える軍や警察など治安部門の力が制限されるだけでなく、ツチ人全体の勢力低下を警戒したからだった。さらなる事態の悪化が予想された。
しばらくして、多くのブルンディ難民が隣国のタンザニアに出ているという報道があった。その数、数万人。一層、増える傾向にあった。
『何か出来ないかしら』
ブジュンブラのスタッフのことをステイシーは気遣うが、今の自分に何が出来るだろうか、と自問しながら、どうにもならない無力感をかみしめた。
「プルルル……」
そうしたある日の深夜に電話が鳴った。
『こんな遅くに誰?』 キッチン近くの電話の子機を取りにベッドを出た。
「ハロー、サマーズです」 ステイシーは訝しげに電話に出る。
「アロー、ステイシー?」 フランス語で呼ばれて驚く。だが、雑音で誰なのか分からない。
「ラケルです! ブジュンブラからです!」 雑音の間から聞き覚えのある声がした。
「ラケル!」 何年ぶりだろう、とステイシーは思った。
「ステイシー、軍隊が迫って時間がないの。今から国を出ます」
ラケルの声は切羽詰まっていた。
「国を出るって、どこに?」 ステイシーがとっさに聞いた。
「あなたの娘も一緒です。また、連絡……」 そう言うとプツンと、電話が切れた。
「ラケル! ラケル!」
叫びながら何度もフックを叩くが無情にも「プー」と、発信音がするだけだった。
『国を出る? あなたの娘?』
何が起きたのか理解出来ず、しばらく受話器を持ったまま茫然として立ちすくんだ。
「ステイシー、どうかしたの?」 母親が話し声に気付いて自室から顔を覗かせた。
その言葉でわれに返り、何が起きていたのか理解しようとした。
「いえ、何でもないの。古い友人から。起こしてごめんなさい」
ステイシーは混乱する意識の中で必死に事態を飲み込もうとした。
『電話はブジュンブラの孤児院のスタッフのラケルからで、軍隊が迫り、安全のため彼女は「あなたの娘」と一緒に国を出ようとしている』
『自分の娘!』
二人とも死産だったと、告げられていたので信じられなかった。
そして、なぜ死産だと聞いていた娘が生きているのか。なぜ、ラケルが彼女の娘と一緒なのか。次から次へと疑問が湧いてくる。
その晩、ステイシーは一睡も出来なかった。
その後、ラケルからの電話があるかもしれないと、電話の前で待機した。
だが、一週間待っても連絡がなかった。そして、次の週も。
『自分の娘』
頭から離れない。いつしか生きている娘とアランを同一視するようになり、彼の生まれ変わりのように思えてきた。
「アンジェ、天使」と、娘に名付けた。
その後、タンザニアに多くのブルンディ難民が流入し、難民キャンプが設置されたと知った。
『きっと、彼らは難民キャンプに逃げたのだわ』
不思議な確信があった。
『アンジェに会いたい』 そう思うと居ても立っても居られなくなった。
そしてアフリカに旅立つ。
年が明けた1994年1月末、平和部隊の関係者の紹介で、タンザニアでブルンディ難民の支援をしているACESの活動に参加する。
***
1994年9月25日日曜日、午後10時
ACESンガラ事務所
長い沈黙が部屋全体を包んでいた。
やがてステイシーは涙ながらに言葉を継いだ。
「ずっと彼女を探してきたのに、ここで多くの難民の子供と触れ合ってきて、いつしかここの子供たち全部がアンジェに見えてきたの。もちろん、娘のことはどうでもよくなったわけではないのよ。すごく会いたいわ。でも、なんだか彼女を探すのもここの子供たちのために働くことも同じだって思えるようになったの」
そう言うと、ステイシーは沈黙した。
「ステイシー、辛かったのね……」 グレイスが涙ながらに彼女を抱きしめた。
「ママ……」 二人は抱き合ったまま泣いた。
その場の全員の目からもゆっくりと熱いものがこぼれた。
ブジュンブラ市内孤児院、ブルンディ
「ラケル、話があるけど、いい?」
ステイシーはついに思い余ってラケルに相談した。年齢も同じで、彼女が一番親身になってくれていたからだ。
それに彼女の伯父はアメリカで仕事をし、孤児院の再建にも協力してくれ、親近感を持っていた。
「ずっと分かっていたわ。黙っていてごめんなさい」
ラケルはずっと心配していたことを伝えた。だが、余計なことをしたくないと、ステイシーが自ら言い出すのを待っていたという。
そして、その後の対応は早かった。
まず、母子の状況を確認するために、産婦人科医を訪れた。
「妊娠8ヶ月24週で、順調です」 産婦人科医が安心するような口調で言った。
医師はアフリカではまだ珍しい女医だった。
ブルンディで初めての女医が誕生したのはたった5年前だった。
「そして、心音が二つ聞こえるので双子です」 女医が満面の笑顔で言った。
だが、その女医の笑顔はステイシーにとって逆に残酷だった。
これ以上、隠しおおせないと、スタッフにも自ら妊娠の件を伝えた。誰もがステイシーに協力的で、彼女を労わった。それに比してステイシーの苦悩は深まるばかりだった。
考えが行き詰まり、またラケルに相談すると、彼女は教会を通して出産後はどこかに養子に出せばいいと、教会を紹介してくれ引き取ってもらうことになった。
予期しない妊娠や不義の子など、中絶を禁じるカトリックが多いアフリカでは、教会が孤児院を運営して、養子縁組を行っていることが多かった。
そのまま聖職に就く孤児も多い。
だが、悲劇は終わらなかった。怪我で傷ついていた体に双子の妊娠と出産は過酷過ぎたのだ。異常出血によって早産を余儀なくされた。
大量出血で意識を失ったステイシーに女医は帝王切開を行い、母体は何とか救うことが出来た。一方の胎児は片方だけ助かり、生まれる。
だが、心理的ダメージが大きいと、ステイシーには知らされず、両方死産だったと伝えられる。生まれた方は、打ち合わせ通り養子に出された。
心身ともに疲れ果てた彼女は体力がアメリカまでのフライトに耐えられるまで回復すると、実家のアメリカ、コロラドに帰国した。まだ、雪の残る、春浅い3月末だった。
コロラドに戻ったステイシーはまるで抜け殻のような状態になり、家に閉じこもる。悲劇から立ち直りかけていた時に起きた不幸に肉体と精神が追い付けなかった。
ステイシーがやっと部屋から出られるようになったのは、再び暖かくなった翌年の春だった。やっと体力が回復したのだろう。
そして、終わらない後悔と逡巡に飽きたというのもあった。
また、国外に出たいと思った。どこかアメリカから離れ、アフリカからも遠いところへ行こう。ちょうど、平和部隊での経験を生かせる日本での公立学校での英語教師の募集が始まったことを知り応募した。
翌年から2年間、金沢市内の中学校で英語を教えることになった。
日本から帰国後、1992年の夏にコロラドに戻り地元の大学でブルンディのピグミー系のトゥワ人について研究するために大学院に進む。
ずっと避けようとしていたのに結局、アフリカに関わる道を選んでいた。
***
一年後の大学院2年目が始まった1993年10月下旬、ブルンディ初の民主選挙で選ばれたヌダダイエ大統領が軍事クーデターで暗殺されたということを報道で知る。
『あの時と同じ……』 ステイシーは妙な胸騒ぎを感じた。
結局、軍事クーデターは自体は失敗したものの、ツチ人で占められる軍部のフツ人への暴力行為はブルンディ全土に及び、これまでとは違う状況だった。
暗殺されたヌダダイエ大統領はフツ人初の大統領で、彼の就任により少数派のツチ人が抑える軍や警察など治安部門の力が制限されるだけでなく、ツチ人全体の勢力低下を警戒したからだった。さらなる事態の悪化が予想された。
しばらくして、多くのブルンディ難民が隣国のタンザニアに出ているという報道があった。その数、数万人。一層、増える傾向にあった。
『何か出来ないかしら』
ブジュンブラのスタッフのことをステイシーは気遣うが、今の自分に何が出来るだろうか、と自問しながら、どうにもならない無力感をかみしめた。
「プルルル……」
そうしたある日の深夜に電話が鳴った。
『こんな遅くに誰?』 キッチン近くの電話の子機を取りにベッドを出た。
「ハロー、サマーズです」 ステイシーは訝しげに電話に出る。
「アロー、ステイシー?」 フランス語で呼ばれて驚く。だが、雑音で誰なのか分からない。
「ラケルです! ブジュンブラからです!」 雑音の間から聞き覚えのある声がした。
「ラケル!」 何年ぶりだろう、とステイシーは思った。
「ステイシー、軍隊が迫って時間がないの。今から国を出ます」
ラケルの声は切羽詰まっていた。
「国を出るって、どこに?」 ステイシーがとっさに聞いた。
「あなたの娘も一緒です。また、連絡……」 そう言うとプツンと、電話が切れた。
「ラケル! ラケル!」
叫びながら何度もフックを叩くが無情にも「プー」と、発信音がするだけだった。
『国を出る? あなたの娘?』
何が起きたのか理解出来ず、しばらく受話器を持ったまま茫然として立ちすくんだ。
「ステイシー、どうかしたの?」 母親が話し声に気付いて自室から顔を覗かせた。
その言葉でわれに返り、何が起きていたのか理解しようとした。
「いえ、何でもないの。古い友人から。起こしてごめんなさい」
ステイシーは混乱する意識の中で必死に事態を飲み込もうとした。
『電話はブジュンブラの孤児院のスタッフのラケルからで、軍隊が迫り、安全のため彼女は「あなたの娘」と一緒に国を出ようとしている』
『自分の娘!』
二人とも死産だったと、告げられていたので信じられなかった。
そして、なぜ死産だと聞いていた娘が生きているのか。なぜ、ラケルが彼女の娘と一緒なのか。次から次へと疑問が湧いてくる。
その晩、ステイシーは一睡も出来なかった。
その後、ラケルからの電話があるかもしれないと、電話の前で待機した。
だが、一週間待っても連絡がなかった。そして、次の週も。
『自分の娘』
頭から離れない。いつしか生きている娘とアランを同一視するようになり、彼の生まれ変わりのように思えてきた。
「アンジェ、天使」と、娘に名付けた。
その後、タンザニアに多くのブルンディ難民が流入し、難民キャンプが設置されたと知った。
『きっと、彼らは難民キャンプに逃げたのだわ』
不思議な確信があった。
『アンジェに会いたい』 そう思うと居ても立っても居られなくなった。
そしてアフリカに旅立つ。
年が明けた1994年1月末、平和部隊の関係者の紹介で、タンザニアでブルンディ難民の支援をしているACESの活動に参加する。
***
1994年9月25日日曜日、午後10時
ACESンガラ事務所
長い沈黙が部屋全体を包んでいた。
やがてステイシーは涙ながらに言葉を継いだ。
「ずっと彼女を探してきたのに、ここで多くの難民の子供と触れ合ってきて、いつしかここの子供たち全部がアンジェに見えてきたの。もちろん、娘のことはどうでもよくなったわけではないのよ。すごく会いたいわ。でも、なんだか彼女を探すのもここの子供たちのために働くことも同じだって思えるようになったの」
そう言うと、ステイシーは沈黙した。
「ステイシー、辛かったのね……」 グレイスが涙ながらに彼女を抱きしめた。
「ママ……」 二人は抱き合ったまま泣いた。
その場の全員の目からもゆっくりと熱いものがこぼれた。