18.キガリへの帰路

文字数 1,657文字

1994年8月7日日曜日、午後9時
ルワンダ、キガリ市内

 車は順調にキガリへの道を進む。車中は誰もが今日見たことのショックで無言だった。 

 夜9時過ぎにはポールの家に戻った。
 家に着くと、心からホッとした。キャベツの山を車から下ろし、ゲートを開けた手伝いの男の子に渡すと湯を沸かすように頼んだ。

「無事だったか!」、「ゴマの様子はどうだった?」 と、ポールと住人たちが玄関に出て迎えてくれた。
「酷い混乱状況だ。難民の状況は最悪だ」 と、ベンがとりあえずの感想を言った。

 応接間のソファーに深々と座ると深いため息が出た。
 行水用の湯と食事が出来るまで、紅茶を飲み、ゴマの話をした。彼らは現地の状況に驚いていたが、不思議と難民がバタバタ死んでいる悲惨な状況に同情はしなかった。
 それよりも「虐殺犯への当然の報いだ」、「もっと苦しんでいい」という非情な反応に驚いた。しかも、フツ人ルワンダ難民を支援することに対してポールを始め、ここの住人は疑問視した。疑問視というよりも完全に批判的だった。

 そんな彼らを数時間前までゴマでの大混乱と、コレラで死んでいく難民を見てきたわれわれには理解が出来なかった。われわれの間に大きな見解の相違があるのを感じた。

 何はともあれ、早く行水でこの日見たゴマの想像を超えた風景につながる埃や臭いを洗い落としたかった。旅の疲れ以上に、この日ゴマで見た風景が重く心にのしかかっていた。胃の奥に鉛の塊を押し込まれたような感じだ。
 精神が消化不良を起こしていた。

 非日常的で、異常な状況では精神はとても傷つき消耗する。これは援助関係者、特に緊急援助に従事する者にとっての宿命だ。自分は難民とは違う立場だと分かっていても悲惨な状況の難民に同化して、自分の事として捉えてしまう。凄まじいばかりの圧倒的な現実を前に自分の無力さを責め、自分自身を傷つけることもある。

 さらに、戦いを止められぬ人間の愚かさ、多くの犠牲者が出てからやっと人道支援を行う国際社会の矛盾などを考え苦しむこともしばしばだ。加えて強烈なストレス。興奮と昂揚感に包まれることも多い。アドレナリン全開の、いわゆる「ハイ」な状態だ。

 極限の状況で仕事を続けるのだから正常な精神状態を保つ方が難しい。また、こういう仕事をしている人は責任感も正義感も強い人が多くバランスを崩す人も多い。援助関係者の中には不眠や慢性的な疲労感など、何らかの問題を抱えている人も多い。
 また、酒やドラッグに逃げ、セックスにおぼれる人もいた。

 これはどんなに強靭な肉体と精神を持ってしてでも同じだろう。こうした状況ではストレス管理と精神衛生を維持することは難しい。ただでさえ家族や友人と離れて仕事をしなければいけないのだから、なおさらだ。
 国連などの大きな団体では専門のカウンセラーを置き、スタッフの精神衛生の管理をしていた。しかし、われわれのような小さな団体には無理なので、小さな団体が持つ家族的な親密な関係がその役割をしていた。

 しばらくソファーで物思いにふけっていると、手伝いの男の子が、湯が出来たと知らせてくれ、バスルームに入った。

 湯を浴びながら行水はこの日見たこの世のものと思えない場面の数々を意識から洗い流す「(みそぎ)」だった。
 ゴマで今日見た全ての(けが)れをこすり落とすようにタオルに力を込めた。

 食事の後、寝室の床に敷かれたマットレスに横たわり目を閉じた。ロウソクの灯かりの下、ぼんやりと今日のゴマでの風景を思い返した。

 黒い人の海のように難民で溢れたゴマ市内とキャンプ、水を求めて延々と並ぶ子供の列。息も絶え絶えの難民老女。そして、埃とすえた体臭と排泄物の混ざった得も言われぬ臭い。  
 体は疲れきっているのに意識が冴えて眠れなかった。

 ベンとチャールズも同じなのだろう。寝返りを繰り返す音がする。
 しかし、隣のアンワルだけはすやすやと寝息を立てている。相変わらず不思議な奴だった。

 翌月曜日の午前中は寝て過ごし、午後も市場に食料の買い出しに行く程度で過ごした。
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