15.深夜の告白II -ゲリラNGO

文字数 2,607文字

1994年3月23日水曜日、未明
ナイロビ、ACES本部事務所

 ベンが続けた。
「あれは二年前の1992年だ。ムズングが正面に立ったあのエチオピアの飢餓救援の経験から、紛争が多発するアフリカで、今度はわれわれアフリカ人自身が立ち上がるべきだと、アフリカの若手医療従事者がダルエス・サラームに集まった。それが今のACESの設立につながった」 
 ベンが言った。

 米ソ冷戦が終わり、世界が平和になるかと思いきや、冷戦時代に抑えられていた問題が噴き出て世界各地で民族紛争、内戦が次々と勃発した。今も旧ユーゴスラビア、アンゴラ、アフガニスタン、モザンビーク、ソマリアなどで多くの犠牲者や難民を生む紛争が続いている。

「ACESは各国医療従事者の地域間協力組織で、東部アフリカと大湖地域を活動範囲として、今ンガラで実施しているブルンディ難民支援が最初の本格的な人道支援事業になる」 ベン言った。

「それに国連や西側の国際NGOに対して、われわれがどれだけ近づけるかというのも証明したい。確かに彼らはわれわれより高学歴だったり、高い技術を持っていたりする。だが、子供が下痢で死ぬようなアフリカで、それ程高い技術が必要か? そんなに高い給料を払う必要があるか? そんなことはない! われわれだったらもっと効率的に出来る。なのにどうだ! どこもムズングばかりだ。これも新しい植民地政策の一種だ!」 ベンがいきり立った。

「自分は大してもらってなかったよ」 雰囲気を和らげようと言った。

 ザンビアでの生活条件は当然ながら難民キャンプでよくなかった。電気、水道、水洗トイレなどはなく、毎日がキャンプのような生活だった。煮炊きは炭か灯油のコンロ、灯りは小型発電機を使っていたが、うるさいので灯油ランプかロウソクだった。水は近くの池からポンプで汲み上げたものを煮沸し、空き瓶に入れて赤土を沈殿させて飲んでいた。

 冷蔵庫がないので肉や魚など新鮮な食べ物は買い出しに行った当日とその翌日ぐらいで、あとは缶詰や乾麺だった。いったい何度ブラジル産コンビーフと、難民が空き地を利用して作ったニンニク大の玉ねぎに、トマトの入っていない変に赤くて甘いザンビア製のケチャップを混ぜて炒めて作った「スパゲッティーナポリタン」を食べたことか。

 収入はボランティアなので現地の生活費を補助になるぐらいだったが、特に使う機会もなかった。せめての贅沢は週一回、町まで首都ルサカの事務所との電話連絡を兼ねた買い出しの際に決まって昼食に寄る町外れのホテルで食べるミックスグリルだった。飲み込むのに苦労する薄くて硬いステーキを地元の冷えたモシ・ビールで一緒に流し込んだ。

 不自由で特に娯楽もない生活だったが、それでも充実していたし、その不自由さを工夫してある意味楽しんでいた。何より日本での苦い思い出を忘れさせてくれた。

 ただ、リンダの一件までは。
 ベンの話を聞きながら物思いにふけった。

「ケン、これは国連とか国際援助機関のことを言っている。組織が巨大で、維持のためにどうしても巨額の資金が要る。欧米の大都市の本部ビルの家賃や人件費、旅費のために毎年何百万ドルも使われる。それが直接支援へ廻れば大きな違いになる」 ベンの言葉に熱が入る。

 確かに国連職員は一回の人道支援の派遣でかなりの貯金が出来ると聞いていた。それなのに、国連への寄付を募る宣伝はあちこちで目にした。

「そもそも、彼らのお役所的な仕事の進め方は目に余る。本部のあるニューヨーク、ジュネーブやパリに確認しなければ進めない。その点、ACESはそれを反面教師として常に身軽で、効率的に動けるようにしている」 ベンが強く言った。
「まるでNGOのゲリラだ!」 と、自分が声を上げた。
「ゲリラNGO! それは面白い!」 ベンも声を出して笑った。

「ケニアで医者になるのは大変だったんじゃないか?」 こっちが質問する番だ。
「まあ、とりあえず勉強はしたよ。うちの村長が四年に一度健康で成績の良い男の子に奨学金を出して村の将来のためにと、大学まで行かせてくれた。兄が同じ奨学金で弁護士になった。今じゃ人権派弁護士として活躍している」 ベンが言った。
「その村長、よっぽど村のことを考えていた人だね」 
 男子に限られていたとはいえ、先見性に驚いた。

「彼はKing’s African Riflesというアフリカ人で構成されたイギリス軍部隊の伍長だった。大戦初期にエチオピアでイタリア軍と戦った東アフリカ戦線に従軍しての出世さ。それからビルマに送られ日本軍と戦った。帰国した後は独立運動に参加したが、独立後の独裁体制に失望して村に引っ込み、村の発展のために尽くした。多分、マウマウ団とかにもいたんだろう。察しはつくが当時のことは何も言わなかったよ」 
 と、ベンが彼のお祖父さんのことを話し始めた。

「マウマウ団の乱」はケニアの独立急進派が1952年から1960年にわたって植民地政府と白人支配層やその経営していた農場などを襲撃した抵抗運動だった。その後は1963年の独立へと結びつくが、合計32人のイギリス人の犠牲者に対して、イギリス軍と植民地政府により数万人のケニア人の犠牲者を出すという悲劇を生んだ。

「医者になってから村に戻らなくていいの?」 ちょっと意地悪い質問をした。
「まあ、いつかはね。今は村人より大勢のアフリカ人のために働く方が村長の意思に適う気がする。だからまだ村には帰らない。兄もそうだ」 
 理想主義的だが非常に現実主義的な答えに思えた。これまでのベンの行動を理解出来た。

「それで、どこで日本語を覚えたんだい?」 あの日、ショッピングモールで、日本語で呼びかけられたことが気になっていた。
「あれはドクター・タケオに教えてもらった。医者だった彼は引退してから、ケニアに来て大学でスワヒリ語を勉強していた。昔、村長がビルマのラングーン近くの捕虜収容所で、負傷した日本陸軍の軍医だった彼に遭って以来の縁だ。奨学金も彼の発案だしな。時々医学部での授業もしていた。彼を知っているのか?」 彼の目が大きく見開いた。

「直接は知らないが伝手をたどれば分かると思う。このプロジェクトを助けてくれないか聞いてもらってもいいよ」 日本からの支援は悪くはない案だと思った。

 そう言うと、ベンはドクター・タケオと彼のお祖父さんの興味深い出会いを語り始めた。
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