9. ACESナイロビ本部事務所

文字数 2,061文字

1994年3月7日月曜日、午前10時
ナイロビ・ダウンタウン、ACESナイロビ本部事務所

 月曜の朝、ナイロビのダウンタウンにあるACESの事務所には宿から近かったので歩いて向かった。途中、地元の人たちで繁盛する食堂に寄って朝食を取る。店頭では小麦粉を練って巨大な鉄板で薄く焼いたチャパティが次から次へと客に運ばれていた。それにパパイヤやパイナップルの合成着色料で毒々しいまでの色をしたジャムを載せ、チャイと呼ばれる砂糖たっぷりのミルクティーで食べた。いずれもインド系の料理だ。

 イギリスの植民地だった東部アフリカ一帯ではこうした料理をよく口にする。植民地時代イギリス人が既に統治するインドから大勢のインド人を連れてきて農園の運営や行政管理、小売業などをさせ、彼らの生活習慣が現地の人々に広まったからだ。

 独立後も生活基盤が出来た多くのインド人はそのまま残ったが、小売業を中心に経済を独占したために地元住民に疎まれ、略奪に遭うことも多く、旧宗主国のイギリスへと避難、移住するインド系住民も多かった。
 有名なのはイギリスのロックバンド、クィーンのフレディ・マーキュリーだろう。インド系の彼の家族はタンザニアのザンジバル島から、独立後に起きた混乱を避けイギリスに移住した。


 事務所のある薄暗いビルの間を歩いた。犯罪の匂いがぷんぷんとするような場所で、いつ強盗に遭ってもおかしくなさそうだ。こんな地域でしか事務所を持てないとはよほど貧乏な団体なのかと心配になった。  
 彼らの事務所はエレベーターもないレンガ造りの古ぼけたビルの4階にあった。薄暗い階段を上がると、大きく緑色で「ACES」と書かれた看板が目に入った。
 両開きの木製の扉は大きく開け放たれ、入り口付近には何かが梱包された段ボールが無造作に山積みになっている。
 隣は弁護士事務所だったが、中には灯りもなく見るからにうらぶれた外観で、依頼人がいるのだろうかと、心配してしまうような様相だった。

「ジャンボ、おはよう!」 そう言って事務所に入った。
「ジャンボ、ケン! 来ると思っていた」 そう言うと椅子からベンが立ち上がった。
「見学だけだよ」 と、一応念を押した。彼らが何をしているのか興味があったが、怪しい地域にしか事務所を構えられない団体だと知って一層及び腰になった。
 ザンビアで働いていた日本の団体でも少しましだった。

「ハクナマタタ、まあいいよ。ゆっくりしていってくれ。ハハハッ」 と、ベンはなぜか笑い、事務所を案内するように中へと歩きだした。

 奥にある部屋には机や本棚が雑然と並び、書類が山積みだった。壁にはアフリカ各地の地図や難民キャンプでの写真が貼られていた。
 最後に会議室と思われる部屋に通されると、そこには土曜日にショッピングモールで見かけた男女をはじめ、数人が円形に並べられた小さなテーブルが付いた椅子に座り会議の準備をしていた。

「ジャンボ! おはよう、みんな」 そう言ってベンがみなの前に立った。
「日本から応援に来てくれたケンだ。温かく迎えて欲しい」 そう言って拍手をした。
「カリブ、ようこそケン!」 一同、手を叩いた。

「アサンテ・サーナ、どうもありがとう。みなさん」 見学だけで新メンバーになったわけではない、と続けるつもりだったが、スタッフの拍手に気後れしてしまった。

『機会を見て部屋を抜ければいい』 内心そう思った。

「ケン、それではスタッフを紹介しよう。私の右にいるのがナースのエリザベス。その隣はグレイス、女性保健担当だ。そして、ジョセフは男性ナース、チャールズは小児科医だ」 
 ベンはそう言うとキョロキョロし出した。
「ところで、ステイシーは?」 みなが彼の言葉で顔を見合わせた。


「ジャンボ!」 若い細い白人女性が小走りに部屋に入ってきた。
「ステイシー、探していたぞ!」 ベンはまるで自分の娘を探す父親のような口調で言った。
「サムハニ、ごめんなさい、ベン……。さっき、アメリカ大使館に寄ったら渋滞に遭ってしまって。途中からマタトゥを降りて走ってきたの」 息を切らせながら彼女は答えた。
 パッと部屋が華やいだ気がした。

 ナイロビもアフリカの他の都市同様、渋滞が酷かった。日本製の中古のマイクロバスやワゴン車を改造し派手に塗られた「マタトゥ」と呼ばれる乗り合いバスが公共交通として一般的だった。数が多いだけでなく、客を乗り降りさせるため終始停まり、交通の流れをさらに悪くしていた。

「ポレサーナ、大変だったね。では、日本からの新任の医師、ケンを紹介する」 
 ベンはそう言うと自分に手を向けた。
「カリブ、ケン! ワタシ、広報担当ノ、ステイシーデス。金沢デ英語ノ先生、シテマシタ」
 ステイシーはそう言うと右手を差し出した。

『なぜ、ACESは日本語が出来るスタッフが多いのだろう?』 
 不思議な感じがした。

「よろしく、ステイシー。でも医者は休業中ってとこだけど……」 
 そう日本語で言って自分も右手を差し出した。
 彼女の温かい手は何かホッとさせるものがあった。
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