6.難民キャンプ、恐怖の日々
文字数 2,527文字
(ンガラに流入するブルンディ難民、1994年11月)
1994年10月24日月曜日、午後3時
ンガラ
ザイールのゴマにある難民キャンプからアメリカの大手援助団体、CAREが治安の悪化、何よりもキャンプを支配する「虐殺犯」への支援は倫理的に容認出来ないと、撤退を決定したことが知らされた。
懸念していたようにザイールの難民キャンプの治安も悪化するばかりだった。ゴマで見た旧ルワンダ軍の敗残兵とフツ人強硬派民兵が暴力で難民キャンプを支配する背筋が凍る情景が浮かぶ。
虐殺犯らが何の訴追もないまま、
ただ、CAREは理論先行がしがちな国境なき医師団とは対照に、粛々として人道支援を行うという印象が強かったので、撤退の決定はとても意外だった。
ザイールと比べ、ンガラのキャンプはベナコなどが強硬派に支配されていたが、全てのキャンプではなく、ルコレはひとまず活動が出来ていた。もちろん、強硬派が持つ武器もマシェティで、それでも十分に恐怖だったが、銃器がなかったからというのもあった。
一撃で人を殺害出来る銃器の存在は本当に恐怖だ。
得体の知れない恐怖と緊張の日々の中、それでも粛々と人道支援は続けられた。
しかし、このンガラでも事態は見えないところで悪化していたことが、次第に明らかになる。
プロテスタント系キリスト教団体がベナコで宗教パンフレットを配り、説教を始めたのに対し難民が激昂し、彼らの車両が襲われたという。
乗っていたドイツ人の団体関係者二人は軽傷だったが、タンザニア人運転手が難民の群衆にその場でなぶり殺しにされた。
難民キャンプで支援活動ではない宗教活動をしたというのがその理由というが、今の難民はその程度で暴発するほど不満が高まり、われわれにもひしひしと危険が迫っているのが分かった。
1994年11月5日土曜日、午前8時
UNHCRンガラ事務所会議室
この日のUNHCRでの定例会議はブルンディ情勢で始まった。首都ブジュンブラで治安状況が急激に悪化を続け、一日に500から1,000人のブルンディからタンザニア国境を超えているという。国境地帯に続々とブルンディの国内避難民が集結し、UNHCRはその数、20万人以上と推計した。
それを裏付けるように、毎日ンガラのACES事務所の前にあるブルンディ国境からの道を国境事務所が朝開いた直後から、大量の荷物を担ぎ、家畜を連れた多くの難民が通り過ぎていた。
ンガラに入った彼らは難民登録された後、病気や伝染病に罹っていないか、一旦トランジット・センターに隔離されて難民キャンプに移された。
当初はブルンディ難民の多いACESが管理するルコレ・キャンプに送られたが、最近はルコレも手狭になり、新設されたルマシ・キャンプに送られていた。
会議室のあちこちでため息をする音がした。再びルスモのような難民の流入があったらンガラは完全にパンクする。それこそゴマの二の舞だ。それだけは避けたいと誰もが願った。
そもそもンガラでの難民支援はブルンディ難民が対象だった。だが、なぜかルワンダが先に崩壊し、大量の難民がここに来たのだ。遅れて同じことがブルンディでも起きてもおかしくない。
難民キャンプでの主導権を握る争いは一段と激化していた。
若い男性難民を中心に展望のないキャンプでの生活への不満が溜まり、旧政権のリーダーのコントロールが利かなくなっているという。
一層過激なグループが台頭して、彼らは難民の若者たちの不満を吸収し、勢力を拡大するために派手な行動を好んだ。
イラクのサダムフセイン大統領やリビアのカダフィ大佐がフツ人によるルワンダ再興のために援軍を送るというデマがまことしやかに過激派グループから広められ、難民によって信じられていた。それを支持するデモも多発し、暴徒化してキャンプ内の商店が略奪されることも増えた。
さらに、ザイールからRPFとの戦いを煽るフツ人過激派グループも入ってきて、若者を焚きつけているという。
まるで、開戦前夜のような緊張感がキャンプ全体を覆っていくのを感じた。
それを裏付けるようにベナコでの軍事訓練は、より戦闘的になった。完全に軍事教練場になったキャンプ内のサッカー場では毎日、100人を超える大柄の難民の男たちがマシェティや棍棒を持って隊列を組み、格闘戦の練習をした。
サッカー場の前を何度も通ったが、一斉に鬨の声を挙げて武器を振り回す殺気だった様子に恐怖を覚えた。このような状況ではいつ一斉に難民が武器を手に蜂起し、援助団体のスタッフらを人質にしてもおかしくない。もはや難民キャンプではなかった。
さらに、ザイールのゴマの難民キャンプからCAREに続き、遂に国境なき医師団・フランスも撤退するという情報がもたらされた。大手の国際NGOが相次ぐ撤退は正に異常事態だ。
1994年11月11日金曜日、午後4時
ンガラ
8月はじめにゴマに行ったとき、難民キャンプに戦闘服を着た多数の元ルワンダ軍兵士や民兵はいたが、武器はザイール軍に没収され、襲われる危険は感じなかった。それより物騒だったのが、金のために躊躇なく銃を突きつけるザイール兵だった。
その後、金に困るザイール兵からフツ人強硬派らが武器を買い戻し、キャンプでの再武装が進んだらしい。国軍が崩壊し、組織として統制が取れない状況で、武器を持った兵士や民兵は難民キャンプで何をするか分からない。
ルワンダへの侵攻を計画するだけでなく、難民キャンプを支配するために武器を使いはじめたら、非武装を旨とするわれわれNGOにとって最悪の事態だ。
虐殺犯が支配する難民キャンプで人道支援をするのも倫理的問題が大きいが、これまで人命優先で支援が行われてきた。だが、虐殺犯が訴追されぬまま放置されるだけでなく、武装した兵士を支援することは完全に人道支援ではなくなり、完全な軍事支援になる。
その問題に気付いた団体が雪崩を打つように難民キャンプから撤退し始めた。
だが、それは既に遅きに失していた。