16.ゴマ、難民に埋め尽くされた町

文字数 3,249文字


         (火山岩の上に出来た難民キャンプ、ザイール、ゴマ1994年8月)

1994年8月7日日曜日、午前11時 
ザイール、ゴマ市内

 ザイールに入るとザイール軍兵士が駆け寄り、国境事務所内で入国手続きをするように促した。
 建物の入口には胸に黒く丸い手榴弾まで吊るした完全武装のガマガエルのように腹の出た兵士がザイール国旗の翻る柱の下のイスの上でふんぞり返ってギロリ、とこっちを睨んでいる。
 それぞれ、パスポートを手にして国境事務所の階段を上がる。

 中では別の兵士が新聞紙大の巨大なノートを木のカウンターに広げ、ボールペンを手渡して必要事項を書き込むように顎で促す。巨大なノートには援助関係者や報道関係者の団体名がズラリと並んでいた。日本のテレビ局もあった。
 パスポートの記載事項と職業、滞在日数を書き最後にサインした。その日にルワンダに帰る予定だったが、念のために日数は一週間とした。
 ビザも不要だったが、入国スタンプもなかった。パスポートを返してもらい、全員の入国手続きが終わるのを外で待った。

 玄関口には大きな対空機関砲が据えられていた。その横にはさまざまな武器がまるで虫干しされるかのように雑然と青いUNHCRのビニールシートの上に並べられていた。重機関銃、対戦車ロケット砲、自動小銃に加え、さまざまな銃弾も散乱していた。あまりに酷い散らばりようはザイール軍の士気の低さを感じさせた。

 ガマガエルに聞いたベンによると、散乱する武器弾薬はルワンダ軍の兵士と民兵が国境を越える際に押収したものだという。つまり、武装解除はされているが、難民キャンプには兵士と民兵もいるということだった。
 難民キャンプでの治安の行方が懸念される。

 案の定というべきか、ガマガエルからドルをせびられた。渡す理由もないが、タンザニア・シリングしか持っていないと言うと、明らかに嫌な顔をして断られた。

 とりあえず、これで無事ザイールに入国出来た。
 最初はゴマの難民全般の状況を確認しようと、UNHCRの事務所を目指した。

 ザイールに入り気付いたのだが、大気が異様な匂いで満ちていた。急に埃っぽく、気温も高くなったが、絶句する匂いでエアコンの利きの悪いアンワルのランドクルーザーの窓を開けられない。
 始めは湖の水の臭いか近くに火山があるので火山性のガスかと思ったが、キヴ湖の水面はきれいな群青色で何か臭いを発している様子はなく、火山性の硫黄を含んだ匂いとも違った。

 同じく気になったのが、軽く手のひらに載るような子供のこぶし大の石が辺り一面に、地面という地面に等間隔で散らばっていることだ。それはゴマ市内でも続いた。びっしりと敷き詰められた感じではないが、まるで賽の河原《さいのかわら》のように石があらゆるところに転がり、異様な感じがした。
 ルワンダ難民が彼らを襲うザイール兵に抵抗しようと投石した名残なのだろうか。

 ゴマ市内に入っても石以外は異様な臭いは続いた。
 町には大勢の人が出歩き、店が通常に営業している。地元ホテルの玄関には国際NGOの横断幕や旗がはためいていて、援助拠点となっているようだ。

 市内の様子を見ようと車で一周した。多くのザイール兵が立ち警戒している。その中の一人が肩にかけた自動小銃をこちらに向けた。アンワルが驚いて急停止した。
 窓を開けるなり「10ドル出せ」 と、兵士が言った。ここでもドルは持っていないと言うと、しっしっと追い払う仕草をされた。

 ここザイール東部は、反政府軍が常にモブツ政権に対して蜂起して、長期の無政府に近い状態が続いていた。だが、その治安回復に送り込まれた陸軍部隊には十分な給料が支払われないか長期の遅配で、兵士による現地での「自給自足」が容認されていた。
 つまり、ここにいる政府軍兵士は制服を着た強盗と同じということだ。

 市内の大きなロータリーの真ん中でイスラエル軍がクリニックを開いて診察をしていた。ジープの車体には白地に赤いダビデの星があり、同じ旗が柱からたなびいている。

 途中、援助団体のTシャツを着たスタッフらしい男性に難民キャンプの所在地を聞いた。キャンプは市内から西に約10キロ行ったところだという。

 町外れから急に援助団体の車両が目立ち始めた。UNHCR、赤十字、国境なき医師団、フランス軍。フランス軍のトラックには物資が満載され、フランス製のミネラルウォーターも大量に積まれていた。

 臭いの正体が何だか分かった。
 それは難民の排泄物だった。
 トイレがどこにもなく、難民が所かまわず用を足すのを目撃したからだ。
 ゴマ周辺はすぐ近くのニーラゴンゴ山による噴火による火山岩で土地が固く、穴を掘って簡易トイレを作ることも出来ない。表面にはほとんど土もないので用を足した後、土をかけることも出来ずに垂れ流し状態だった。ここでもゴマ市内と同じ異様な臭いが立ち込めていた。
 コレラなどの感染症が爆発的に大流行するはずだ。

 開けた場所でフランス軍が給水をしていた。迷彩色のルノーの大型トラックに引かれた同じ色彩の給水トレーラーが何台も配置されていた。給水トレーラーの周囲には、トレーラーの後ろに付いた蛇口から給水するために難民が黄色いポリタンクを持ち行列を作っていた。
 ここでも水汲みに来ているのはほとんどが女性と小さな子供だった。

 延々と人の列が続く。われ先に前へ出ようとする人を、地元の警官らしき男たちが、大声を出し、木の棒を振り回して押し返しては列を守らせる。
 この暑さとホコリでは水汲みは大変な負担だ。どの難民もやせて埃まみれだった。暑さのためか時々倒れる女性もいた。
 その姿を、自動小銃を肩からぶら下げたフランス軍兵士たちが所在なげにタバコを吸いながら見ている。

 さらに進むと援助機関の旗が立っていた。国際移住機関・IOMのムグンガ・キャンプ事務所だった。テントの中には現地スタッフがいた。その中の一人の男性がキャンプ内を案内してくれるというので、早速、彼とキャンプの中へと車で向かった。

 ゴマにはこのムグンガに加え、カタレ、キブンバの三つのキャンプが設置され、合計で約200万人もの難民が暮らしているという。
 
 IOMが管理していたこのムグンガ・キャンプは設置されて2週間、人口が約75万人だった。
 別々のキャンプとはいえ、難民で見渡す限り土地を埋め尽くされ、どこからがどのキャンプなのか全く分からない。
 200万人とはンガラにある全キャンプの4倍のとてつもない難民の数で、大混乱は当然だ。食料、水、医薬品など生命維持に必須の全物資を確保するには想像を絶する労力が必要だろうと、他人事ながら気になった。

 車で人の波をかき分け移動すると、大きなテントの前で作業をしている集団がいた。
 クリニックの建設現場だという。このキャンプには4つの病院があり、コレラの犠牲者はかなり減ったが、まだ完全には収束せず、この日も100人近くが亡くなり、その多くが子供だという。

 建設中の病院の外では固い火山岩の地盤のため遺体を埋葬出来ず、火山ガスが抜けて出来た窪地に遺体を並べ石灰を上から次々にかけている。
 先日ニュースで見たコレラの犠牲者をブルドーザーで集めて処理していたのと同じ状況が今も続いていた。女性国連職員が、こんな酷い状況は初めてだと涙していた場面を思い出した。

 しばらくこのキャンプの中を歩いた。ガラにいる難民と違ってテントはない。テントの材料になる草や木もないだけではなく、火山性の地盤で硬くて柱を立てられないからだ。ビニールシートもなく、難民はゴザのようなものを硬い火山岩の上に被せ、灼熱の太陽の下、ぐったりと横たわるだけだった。

 難民は出身地ごとにまとまっているのはンガラのキャンプと同じだった。地域名が書かれたハガキ大のダンボールの切れ端を棒にぶら下げ、火山ガスの穴から立てていた。
 ここも、旧政権の組織が住民に国境を越えさせ、体制を維持しているようだ。

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