般若経を終えて  ~監修者のひとりごと

文字数 2,602文字

如何でしたか?
よく、般若心経をほめて(?)
「600巻もある大般若経をギュッとまとめ上げたエッセンスが般若心経!」
なーんて記述を見かけますが、あれってどうなんでしょうね?

今回、その般若経群のなかでも古層にあたる『八千頌般若経』の大事なポイントをご紹介しましたが、
個人的には、およそ般若心経とは違うと思うのですが・・・
やはり、原典に当たるというのは、基本中の基本、大事ですねー!

少し解説をしますと、
中心となるのは、文句なく〈般若波羅蜜〉です。
しかし、場面場面で使われるニュアンスが違うので、カッコ書きで様々な訳をつけてみました。
(知恵の完成)(完成された智慧)〈全てを知る者の智慧〉〈純粋なすばらしい智慧〉〈この上もなく完全なさとり〉など。

〈般若波羅蜜〉というのは、智慧なんだけど、ただの智慧じゃなくって、仏様たちが追求した智慧であり、追求し続けることで悟りへと至った智慧なんですね。だから、もしかすると「悟りそのもの」と言えるかもしれない。
しかし、そこまではあまり言い切らずに、「智慧を完成させる」「完成された智慧」という両義性を持ったままの単語として使っている、という感じでしょうか?(もしかしたら、全然違うかもしれませんけど…。より詳しい方のご指摘、お待ちしています!)

前段は、“解空第一”と賞される仏弟子・スブーティとの問答。〈空〉との結びつきで〈般若波羅蜜〉を論じていて、面白いんだけど、なんだかわかったような、わからんような…。この段は、“上品(じょうぼん)”の者のための教え、と解説されます。

中段は、帝釈天にお出まし頂いて、〈般若波羅蜜〉のスーパーナチュラルパワーを説き、〈般若波羅蜜〉を褒め称えまくる段!前段とずいぶんギャップがあるような気がするのですが、これは仏の悟りの優位性を神々が認め、〈般若波羅蜜〉を通して仏を目指す我々人間を神々も守る、ということが証されているのだと思います。“善因楽果”の極みが、〈般若波羅蜜〉を行ずることだという主張でしょうか。この段は、“中品(ちゅうぼん)”の者のための教え、と解説されます。

後段は、いままであまり紹介されることの少なかったであろう、“常啼菩薩(サーダプラルディタ)のはなし”です。これを紹介出来たことが、今回の快挙かな?
〈般若波羅蜜〉を求めて旅をする泣き虫の菩薩のはなしですが、非常にインド的というか、この世での命に執着せず、もっと大事なもの〈般若波羅蜜〉へと邁進することを勧める、美しい物語ですね。
ポイントは、
『よいかな、よいかな。善良な若者よ。〈過去の尊い如来たち〉も、〈菩薩(悟りを求める者)の修行〉をしていたとき、あなたと同じように思い悩みつつ、〈智慧の完成(=般若波羅蜜)〉を求めたものなのだよ。・・・』
というところでしょうか。どの仏たちも、みんな〈般若波羅蜜〉を求めて悟りを得た、ということが説かれています。
そして物語の最後には、〈般若波羅蜜〉の性質が、あますところなく説かれている。こうして、物語の読者も、サーダプラルディタと共に〈般若波羅蜜〉を求める旅を追体験出来る、というわけです。
ちなみにこの段は、“下品(げぼん)”の者のための教え、と解説されます。

ワタシメが愚考しますに、
“お釈迦様だけではない、過去の数限りない仏様たちも悟りを開かれたのは、どういう方法によってか?”
という問いが生まれた時に、そのための回答として探し求められたものこそが、
〈般若波羅蜜〉だったのではないか?と思うのです。
“みんな仏様は、智慧の目を開かれて悟りをお開きになったのだ”
“それも、そんじょそこらのただの智慧ではない!これ以上ない智慧だ!”
“その智慧は、どのようにして求めればよいのか?”
“その智慧は、おいそれと求められるものではない。なぜなら、仏のみに知ることのできる〈悟り〉の性質をもっているはずだからだ(=空)”
“その智慧を追求できれば、仏へと近づけるはずだ。ならば、神々のご加護も得られるはずだ”
などなど、様々な問いとその答えが重ねられて、やがて偉大なる般若経典群が生まれたのではないでしょうか。

ここからは、ひとり気づいて喜んでおったことなのですが、思い切って述べますと、
〈般若波羅蜜〉こそが、ありとあらゆる仏たちの悟りの秘密であり、
そこにアクセス出来れば悟りを得ることが出来るターミナルセンターみたいなもの!と考えられたのではないでしょうか?
だからこそ、全仏教徒に〈般若波羅蜜〉を広める必要があったし、その実践、智慧の追求によってこの世的なものから離脱する心象が培われていく…。
ただし、ここにはまだ人格的な信仰対象としての仏は、ほとんど現れていないようです。
あくまで智慧を追求できる賢者、行者たちのための教え。指針。
般若心経は、少し密教が入って来ていて、〈般若波羅蜜〉を仏母・般若菩薩として人格化し、そこへの思念の集中を説いているのです。
人格化された崇拝対象を思念するのは、賢人に限られず、凡夫にも十分出来る修行。
ということで、大乗仏教の様々な仏や、密教世界のもっと多くの仏菩薩諸天が崇拝されていくわけです。

ですから、般若経群とは、始めて私たちにも仏となる可能性を開いた経典群。
仏を目指すための合言葉、これこそ〈般若波羅蜜〉!
そこには、崇高な哲学も、摩訶不思議な霊力も、素人でも出来る(?)サクセスストーリーも用意されているのです!
そして、
この膨大な思考の集積によって、後の大乗仏教の花が咲き乱れて行くのです!
そこのお陰を噛みしめて、
尚且つ、〈悟り〉とそれに直結する、もしくはそのものかもしれない〈般若波羅蜜〉の生々しさに触れて、そこへと思念を寄せていく…!
それこそが、般若経群の正しい読み方かもしれません。
(余談ですが、インドのヨーガの伝統のなかには「ジュニャーナ・ヨーガ(智慧のヨーガ)」というものがあるそうです。
般若経の後継者かもしれませんね。)


では、次回はお釈迦様のステキなことばの数々、『法句経』です!
清潔で、真の徹った厳しさと美しさに満ちた、
おそらくはもっともお釈迦様の肉声に近いであろう、と言われているお経を、
その詩としての持ち味をなるべく活かせるようにしてゆくつもりです。
お楽しみに~!
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