あるのでもなく ないのでもなく

文字数 5,187文字

 あるとき、仏陀はラージャグリハ(当時の大国、マガダ国の首都。王舎城)の霊鷲山に、千二百五十人の修行僧たちといっしょに滞在していた。これらの修行僧たちは、みな阿羅漢(最高位の聖者)であり、汚れは尽き、煩悩はすでに去り、心は解き放たれ、知恵の自由にはたらく者たちであった。なすべきことはすでになし終え、〈自己の目的という重荷〉を下ろし、輪廻の鎖を断ち切った者たちであった。彼らは、正しい知により心は解放されて自由であり、彼岸に達していた。ただ、アーナンダだけが例外であった(アーナンダはお釈迦様のいとこにあたり、25年間お釈迦様の最もそばで仕え続けた仏弟子。仏滅後に他の修行僧と同じ阿羅漢の位へと昇った)。

 仏陀はスブーティ(須菩提。釈迦十大弟子のひとり。〈空〉を理解する第一人者)に語りかけた。
「今日ここに集まっているのは菩薩たちが多いようだ。この菩薩たちのために、〈般若波羅蜜(知恵の完成)〉について説いて、菩薩たちがこれから何を学べばよいか、教えてあげるがよい。」
スブーティは答えて言う。
「世尊よ、わたしに『菩薩たちに説け』と仰いますが、〈菩薩(覚りへと向かう善良な人)〉と名付けられるものたちがいる、と思うことは、〈菩薩〉にとらわれることになります。
〈名付ける〉〈名付けない〉とはどういうことでしょうか?
様々な存在の中に〈菩薩〉という名がありますが、〈菩薩〉というものが存在することはない、とわきまえるのです。
〈菩薩と名付け得るものたち〉などいない、とわきまえるのです。
また“かれこそが〈菩薩〉だ”、などとも認めません。
“かれは覚り(=完成された智慧)までこれくらい近づいている”、などとも認めません。

どうして、存在しない〈菩薩〉たちに〈般若波羅蜜(=完成された智慧)〉を教えることができましょうか?
 
世尊よ。
「存在しない〈菩薩〉に〈般若波羅蜜〉は教えられない」と聞いても、恐くなったり、嫌になったり、ひるんだり、落ち込んだり、おののいたりしない〈菩薩〉。このような〈菩薩〉こそ、まさに〈般若波羅蜜〉を学ぶ資格があるのです。これこそが、〈菩薩〉が〈般若波羅蜜〉に留まっているということであり、これこそが、〈般若波羅蜜〉の教えなのです。
 世尊よ、〈般若波羅蜜〉を実践する〈菩薩〉は、「私は菩提(悟り)を求める者なのだ」と心に思って学んではなりません。なぜならば、(ふつうに人が思い描く)心とは、(本当の)心ではないのですから。“心の本性”とは、清く輝いているものなのです」

その時、シャーリプトラ(舎利子/舎利弗。釈迦十大弟子のひとり。〈智慧第一〉と称される。)が尋ねた。
「スブーティさん、“心ではない心”というものがあるのでしょうか?」
「シャーリプトラさん、心とは有るのでもなく、無いのでもなく。得られるのでもなく、どこにあるのかもわからないものです。あなたは、“心ではない心”があるのか、ないのか、分かるのでしょうか?」
「いえ、分かりません」
「“心ではない心”があるのか、ないのか、知ることができないことをあなたが知っているのならば、 『“心ではない心”があるのか、ないのか?』とあなたが質問するのは、正しいことなのでしょうか?」
シャーリプトラはしばらく考えてからこう言った。
「そうですね、では質問を訂正します。スブーティさん、“心ではない心”とは何ですか?」
「シャーリプトラさん、“心ではない心”とは、“決して変化しないこと、分別(妄想)を離れていること”です」
「スブーティさん、すばらしい。あなたは、みごとに〈般若波羅蜜(=完成された智慧)〉を説かれましたね」

 スブーティは語る。
「世尊よ。
“長い間さ迷っていた、とある遊行者”は、〈全てを知る者の智慧(=般若波羅蜜)〉を信じて、“信じつつ道を歩む者”となりました。そうして彼は、わずかながらも〈全てを知る者の智慧(=般若波羅蜜)〉へと入り、悟ることができたのです。
それ以来、かの遊行者は、〈(自分自身の)姿かたち〉にも、〈(外からやってくる)刺激〉にも、〈(自分の心のなかに組み立てられる)経験〉にも、〈(経験の結果から無意識にあらわれる)好き嫌い〉にも、〈(経験の結果から判断してきた)知識〉にも、とらわれなく、にぎりしめることがなくなりました。そこには、〈全てを知る者の智慧(=般若波羅蜜)〉はないのです。それらは〈般若波羅蜜〉には属さず、しかし別のところにあるのでもない、と知ったのでした。そうして彼は、なにも執着しません。執着されるものは、なにもないのです。彼はなにもにぎりしめることなく、またなにも捨てることもありませんでした。彼は〈涅槃(完全なる悟りの境地)〉をさえ、思うことはありませんでした。
世尊よ。 
〈姿かたち〉にとらわれてしまうことなく、〈刺激〉にも〈経験〉にも〈好き嫌い〉にも〈知識〉にもしばられることなく、からめとられることのないこと。これこそが、“偉大なる菩薩”の〈智慧の完成(=般若波羅蜜)〉と知るべきです」

 その時、シャーリプトラが問いかけた。
「スブーティさん、〈姿かたち〉は〈姿かたち〉としての性質を捨て、〈刺激〉も〈経験〉も〈好き嫌い〉も〈知識〉も、それぞれの性質を捨てているのでしょう?それならば、〈智慧の完成(=般若波羅蜜)〉さえも〈智慧の完成(=般若波羅蜜)〉としての特性を捨てている。それなのに、どうして“菩薩は〈智慧の完成(=般若波羅蜜)〉から離れていない”と言えるのですか?」
 スブーティは答える。
「おっしゃるとおり、〈智慧の完成(=般若波羅蜜)〉は、〈智慧の完成(=般若波羅蜜)〉という特性なしに存在しています。
そして、シャーリプトラさん、〈智慧の完成(=般若波羅蜜)〉を学ぶ菩薩は、〈全てを知る者の智慧(=般若波羅蜜)〉にむかって出てゆくのです。それはなぜかというと、“真実は、すべてのものは生じることなく、滅びることなく、つくられたものでもない”からなのです。このように追求し、知り得た“偉大なる菩薩”は、〈全てを知る者の智慧(=般若波羅蜜)〉の近くへと至り、安らぎ、浄まり、熟して、仏たちとまみえるのです」

 シャーリプトラが尋ねる。
「スブーティさん、どのように求める菩薩が、〈智慧の完成(=般若波羅蜜)〉を実践しているのですか?」
「〈姿かたちあるもの〉を求めることもなく、“〈姿かたちあるもの〉には性質がある”と言って求めることもなく、〈姿かたちあるもの〉が生まれ滅びることも求めることもなく、“〈姿かたちあるもの〉は〈空〉である”と言って求めることもなく、“わたしは菩薩(求道者)である”と言って求めることもなくして追求する菩薩こそが、〈智慧の完成(=般若波羅蜜)〉を実践するのです。
同様に、彼は〈刺激〉を求めることもなく、〈経験〉を求めることもなく、〈好き嫌い〉を求めることもなく、〈知識〉を求めることもなくして行動するのです。

 菩薩は実践していながら、 “わたしは探求している”とみなすことをやめるのです。“わたしは追い求めていない”とみなすこともやめるのです。“わたしはおこないつつ、求めていない”とみなすこともやめるのです。“わたしは求め続けないのと同時に、求めないのでもない”とみなすこともやめるのです。
 これが、“大いなる菩薩”の〈すべてのものにとらわれず、しがみつくことのない瞑想〉なのです。これこそが、はかりしれないほど広大で、高貴なものなのです。

 世尊よ。
“大いなる菩薩”は、この瞑想にありながら、この瞑想を見ることはありません。 “わたしは瞑想している”とも、“わたしは瞑想を達成するだろう”とも、“わたしは瞑想を成し遂げた”とも、考えることはありません。彼にとっては、いかなるものも、どのような在り方でも存在しないのです」

 仏陀はスブーティをほめたたえた。
「スブーティよ、そのとおりだ。そのように学ぶ菩薩こそが〈純粋なすばらしい智慧(=般若波羅蜜)〉を学ぶのだ」

 その時、シャーリプトラが尋ねた。
「世尊よ。このように学ぶ菩薩こそが、〈般若波羅蜜〉を学んでいるのですか?」
 仏陀は答える。
「そのように学ぶ菩薩こそが、〈般若波羅蜜〉を学んでいるのだ」
「このように学ぶ菩薩は、どのような〈法=ダルマ(真理・法則・存在)〉について学ぶのですか?」
「そのように学ぶ菩薩は、じつは、なにも学びはしないのだ。なぜならば、〈法=ダルマ(真理・法則・存在)〉とは、世間の人々が “存在している”と思い込んでいるような在り方をしてはいないのだから」
「それでは、〈法=ダルマ(真理・法則・存在)〉とは、どのようなかたちで存在しているのですか?」
「“存在しない”というかたちで“存在している”のだ。
 無明(迷い)の闇につつまれた多くの人々は、“存在しない”すべてのもの(ダルマ)を“ある”と理解して思い描いてしまい、〈法=ダルマ〉は“ずっとあり続ける”、もしくは“すべて滅んでしまう”などと執着してしまっている。
シャーリプトラよ。“大いなる菩薩”は、すべての〈法=ダルマ(真理・法則・存在)〉に執着しないのだ」
「そのように学ぶ菩薩は、〈全てを知る者の智慧(=般若波羅蜜)〉を学ぶことになるのでしょうか?」
「そのように学ぶ菩薩は、〈全てを知る者の智慧(=般若波羅蜜)〉を学ぶのでもないのだ。“学ばない”というかたちで学ぶ“大いなる菩薩”こそ、すべてを学ぶ。そのように学ぶ菩薩が〈全てを知る者の智慧(=般若波羅蜜)〉を学び、〈全てを知る者の智慧(=般若波羅蜜)〉に入っていくのだ」

スブーティは語った。
「世尊よ。菩薩がなぜ“大いなるもの”といわれるのか、明らかにわかりました。
 “大いなる菩薩”は、〈かの悟りを求める心〉、〈純粋なすばらしい智慧(=般若波羅蜜)を求める心〉、〈けがれなき心〉、〈比類のない心〉、〈至高なる心〉であり、しかも、このような心にさえ執着せず、とらわれないのです。だからこそ、“大いなる菩薩”と呼ばれるのです」
 シャーリプトラはスブーティに尋ねた。
「菩薩は、どういうわけで、心に執着しないのですか?」
「“心でない心”だから、執着しないのですよ」
「“心でない心”というものが存在するのですか?」
「無心というものに、“ある”とか“ない”とかがあるでしょうか」
「いや、ありません」
「無心というものに、“ある”とか“ない”とかがないのなら、どうして“無心は存在するのか”などと質問するのですか」
「なるほど。そのとおりですね!」

 スブーティは仏陀に問いかけた。
「世尊よ。
 “大いなる菩薩”とは、どれほど大きな“功徳という甲冑”によって身を固めているのでしょうか?」
 仏陀は答えて言う。
「スブーティよ。“大いなる菩薩”はこう考えるのだ。“わたしは無数の人々を涅槃に導かねばならない。だが真実は、涅槃に導かれるべき人々も、涅槃に導く自分自身も存在はしないのだ”と。彼は無数の人々を涅槃に導くが、涅槃に入る人々も、涅槃に導く者もその実、存在しない。なぜならば、もろもろの〈法=ダルマ(真理・法則・存在)〉の本性とは幻のごとくだからだ。
 腕の立つ幻術師が、幻術によって“往来に群衆をあふれさせた”としてみよう。そしてその後で、“群衆”をすべて消し去ってしまう。
さて、どうだろうか。この場合、だれかがだれかによって消されたことになるだろうか」
「いいえ、そうではありません」
「それと同じなのだ。“大いなる菩薩”は、無数の人々を涅槃に導くのだけれども、涅槃に入る人々も、涅槃に導くいかなる者も、その実、存在はしないのだ。
このような教えを聞いても恐れない“大いなる菩薩”ならば、このような大きな“甲冑”で身を固めているのだ」
「世尊よ。そういうことならば、“大いなる菩薩”とは、その実、大きな“甲冑”で身を固めてなどいない、ということになります」
「そのとおりだ、スブーティよ。“大いなる菩薩”とは、その実、大きな“甲冑”で身を固めてなどいないのだ。〈全てを知る者の智慧(=般若波羅蜜)〉とは、作られることなく、変化することもないものであり、同様に、“菩薩が彼らのために甲冑を身につける”という、その救われるべき人々も、真実は、作られることなく、変化することもないのだから」
「そうですね!あらゆる〈姿かたち〉とは、もともと束縛されてもいないし、解放されてもいないのです。それぞれの〈刺激〉も〈経験〉も〈好き嫌い〉も〈知識〉も、もともと束縛されてもいないし、解放されてもいないのですね!」
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