天女

文字数 2,112文字

 ヴィマラキールティの部屋に、天女がひとり来ていた。菩薩たちの対話を聞いて姿を現わし、花を菩薩たちや声聞たちに振り撒いた。
 菩薩たちに降りかかった花は床に落ちたが、声聞の身に降りかかった花は、体にくっついてしまって、下に落ちない。彼らは神通力で花を振り落とそうとするのだけれど、花は落ちない。
「お偉いさん、どうして花を振り落とそうとなさるの」
 と、天女はシャーリプトラに言う。
「天女さん、花は修行者にふさわしくないんです。だから、振り落とすんです」
「あら、そんなことおっしゃっちゃ、だめよ。この花は誰も分けへだてることがありませんもの。あなたが分けへだてているだけなのよ。出家したのに分けへだてするなんて、いけないことだわ。そうしないのが、いいのよ。菩薩さんたちに花がくっつかないのは、分けへだてしていらっしゃらないからだわ」

「天女さん、あなたは長いこと、この部屋にいらっしゃるのですか」
「あなたが悟りを開かれて以来と同じくらいの長さよ」
「長いのですか」
「あなたは悟りを開かれてから、長いのかしら?」
 シャーリプトラは答えに窮して、黙り込んでしまった。
「知恵第一のお偉いさん、どうして黙っていらっしゃるの。お答えになってよ」
「天女さん、解脱(さとり)のことは言葉で語るべきものではないので、ここではお話できません」
「言葉も文字も、みんな解脱を表してるのよ。なぜって、解脱はあなたの内にも外にも、その中間にもないでしょ。文字だって同じ。誰の内にも外にも、その中間にもない。だから、“言葉を離れて解脱を説く”なんていっちゃ、だめ。すべてのものは、解脱の表れなんですもの」
「天女さん、“婬欲(むさぼり)と怒りと愚かさを離れること”が解脱ではないのですか?」
「“婬欲と怒りと愚かさを離れることが解脱である”というのは、「もう悟った!」とうぬぼれる者がいるから、そう説かれたのよ。もしうぬぼれる人がいなければ、仏様も“婬欲と怒りと愚かさはそのまま解脱である”と説かれたでしょうね」
「まことに結構な説法でございますなあ。あなたは、いったい何を悟って、そのように弁舌さわやかになったのですか」
「わたしはなにも悟っていないわ。だから、こんなふうに話すの。なにか悟ったと思う人は、うぬぼれやさんよ」

「天女さん、あなたはどうして女身を変じて男性にならないのですか」
「わたしはこの部屋に留まってから十二年間、“女というもの”を探し求めたのだけれど、ついに見つけられなかったわ。それなのに、どうして女身を変じなくてはいけないのかしら。たとえば、幻術師が女の幻影を作り出したときに、その幻の女に ゛なぜ女身を変じて男性にならないのか″って訊いたら、変じゃない?」
「そりゃ、変ですよ。幻の女には実体がないですから」
「一切がそうなのよ。幻であって、実体はないのよ。それなのに、゛なぜ女身を変じて男性にならないのか″って訊くなんて」
 そう言うやいなや、天女は神通力でシャーリプトラを女の姿に変えてしまった。そして、自分はシャーリプトラの姿になった。
 そうして、シャーリプトラの姿になった天女は、女になったシャーリプトラに、
「どうして、女身を変じて男にならないんだい」
 と、訊いた。
「あらあら、わたしは女になってしまいましたよ。どうして、こんなことになってしまったのかしら」
「君が女身を変じることができるなら、女の人はみんな女身を変じてるよ。君が女の姿を取っているように、どの女性も女の姿を現じているんであって、“女というもの”ではないんだ。だから世尊は、“すべてのものは男にあらず女にあらず”と説かれたんだよ」
 そう言って、天女は神通をやめたので、シャーリプトラは元の姿に戻った。
「あなたのさっきの女の姿は、どこに行ったの」
 と、天女はシャーリプトラに訊く。
「女身とは、あるのでもないし、ないのでもありませんなあ」
「すべてが、そうなのよ。あるのでもなく、ないのでもないの」

「天女さん、あなたは死んだら、どこに行くんですか」
「仏様がみんなを導くためにお生まれになるところに、わたしも生まれるわ」
「仏様がみんなを導くためにお生まれになるところというのは、みんながここで死んでどこかに生まれるのとは違いますよ」
「みんなもそうなのよ。ここで死んでどこかに生まれるということではないのよ」
「天女さん、あなたはもう永らく悟りを開いていらっしゃるみたいですね」
「お偉いさん、あなたが凡人になったら、わたしも悟りを開くわ」
「私はもう凡人にはなりませんよ」
「わたしも、悟りを開くことはないわよ。なぜって、悟りというのはとどまるところなんてないんですもの。だから、“悟りを得られる人”なんいうのもいないのよ」
「ガンジス川の砂の数ほどの如来たちが無上の悟りを開いていらっしゃいますが、どう考えればよいのでしょう?」
「お偉いさん、あなたは阿羅漢位(声聞の最高位)を得たの?」
「得るところが何もないので、得ております」
「それと同じよ。悟りを得ることがないから、悟りを得ているのよ」
(了)
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み