歓喜する菩薩

文字数 1,569文字

 金剛蔵菩薩は諸々の大菩薩たちに語り始めた。
「仏の子たちよ、善い行いを積み重ねながら仏たちを敬い、供養し続ければ、〈善いなかま(善知識)〉に守られて深く広い心へと入り、大いに慈悲へとむかい、好んで智慧を求めるようになるでしょう。この〈大いなるあわれみの心(大悲)〉を第一とすべきです。そうすれば智慧も授かり、すなおな心や深い心もどんどん仏へと近づいてゆくでしょう。そうして智慧が広大になり、真の仏の子となって、最後には〈この上もない、等しく正しい覚り〉をきわめることができるでしょう。このような法にとどまることを、「歓喜の地に住む」と名付けるのです。
 仏の子たちよ、〈歓喜の地〉に至ったならば、大いに喜びが湧いてきます。大いに信じる心が湧き、大いに清らかな心が湧き、大いに楽しくなり、心やわらかく、しんぼう強く、争いを好まず、人を困らせるのを好まず、怒ったりうらんだりしなくなります。
 仏の子たちよ、歓喜の地にいたったならば、“仏たちのこと”を想い念じるだけで喜びの心が湧いてくるのです。“すべての仏の法”を想い念じるだけで喜びの心が湧いてくるのです。“菩薩たちや大菩薩たちのこと”を想い念じるだけで喜びの心が湧いてくるのです。“菩薩たちの行い”を想い、“完成された修行の清らかさ”を想い、“菩薩たちのすばらしさ”を想い、“菩薩たちの力が決して砕かれることはない”ことを想って、歓喜の心が湧き上がってくるのです。
“如来たちのあざやかな教え導きかた”を想って歓喜の心が湧き上がり、“わたしも人々のためになることをしたい”と思って歓喜の心が湧き上がり、“あらゆる仏とあらゆる菩薩の入っていく〈智慧を身につける門〉”のことを念じて、歓喜の心が湧き上がるのです。
 またひるがえって我が身を見て、このような想いを抱きます。
 『“世間の行ないすべてから離れている”から、歓びが湧いてくる!“仏たちの平等性のなかに入ることができた”から、歓びが湧いてくる!“凡人の心境から遠く離れた”から、歓びが湧いてくる!“仏たちの智慧の境地に近づき”、“すべての悪い道を断ち切った”から、歓びが湧いてくる!“人々の拠りどころとなり”、“あらゆる仏に会い”、“仏たちの境地に近づくことができて”歓びが湧いてくる!“すべての菩薩たちのなかまとなり”、“恐れることがなにもなくなって”歓びが湧いてくる!』と。
 
〈歓喜の地に至る〉とは、〈不安と恐れがすべてなくなる〉ということです。“生きてゆけるかどうかという不安”、“後ろ指をさされないかどうかという不安”、“死というものへの恐れ”、“死んでから地獄などの悪い世界に落ちないかという恐れ”、“大勢の人を前にして威圧感をおぼえたり怖くなったりすること”からまったく遠ざかるのです。
 
 どうして〈すべての不安と恐れがなくなる〉のでしょう?
この菩薩は〈自我という観念〉から離れて、〈自分への執着〉がなくなるからなのです。
 生活の糧への執着は、もちろんなくなっています。だから、“生きていけるだろうか”という不安がないのです。
 人から敬われたいという思いはありません。 むしろ、“わたしは、人々が求めるものを与えなくては”と思うのです。名誉や地位への不安はないのです。
 菩薩は〈自我に執着すること〉がありません。〈自我という観念〉がないので、“死への不安”がないのです。
“死んでからは、かならず仏たち、菩薩たちのところに行く”と思っているので、“地獄や餓鬼道や畜生道や阿修羅界に堕ちないだろうか”という不安がありません。
“わたしの〈志すところ〉も〈そのための努力〉も、並ぶ者はいない。ましてや、勝る者などいないのだ”とわかっているので、“大勢の人々を前にして押しつぶされそうな不安”もないのです」
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み