さて、いよいよ阿弥陀仏様の真実のお姿です!!  ~監修者の独り言

文字数 1,435文字

さて、第八観まで終えました。
極楽の様子が、すっかり出揃いました。

皆さんは、イメージが出来ましたか?
なかなかイメージが追いつかないかもしれませんが、それにしても第八観は、壮観でしたね!
(宣伝ですが、極楽の絵を使って、編訳者と監修者が作った絵本があります。→『絵本 極楽』西川 隆範・著, 桝田 英伸・監修 2009風濤社・刊)

さて、次回からはいよいよ阿弥陀仏様の真実のお姿です!
超天文学的な数字も出て来ますが、壮大なイメージはたいへん美しいです。
(阿弥陀仏のお姿といいながらも、ありとあらゆる仏様たちへと繋がってゆくのです…)

また、その次から観世音菩薩様の真実のお姿、大勢至菩薩様の真実のお姿と、
阿弥陀仏様にお仕えする二大菩薩様たちが
ど迫力の存在感でもって、やはり非常に美しいイメージで描き出されますので、そちらもお楽しみに!


ちなみに、言葉の説明を少々。

まず、「無量寿仏」と「阿弥陀仏」の両方が出て来ますが、どちらも同じ仏様です。
(阿弥陀仏とは、現代日本語に訳すと「はかり知れない光、はかり知れない命の仏」となります。)
これは、原典の『観無量寿経』でも併用されています。
具体的には、最初と後半から「阿弥陀仏」と呼ばれ、中間の“十三観想行”では「無量寿仏」と呼ばれます。
これは、おそらくは元々二つの経典だったものをひとつに編集したために生まれた併記かと思われます。

次回の第九観でも混用されるのですが、これはそもそも経典に出て来るところでは「無量寿仏」をそのまま用い、
経典では「仏」「化仏」とだけ記されている部分は文脈から「阿弥陀仏」「化身の阿弥陀仏」としておきました。
(これらの改訂は、監修者によります。)
場合によっては「仏」という言葉が、“語り手である釈迦仏”を指す場面もあります。
これは今までの研究者も見落としておられるようなのですが、文脈の鮮明さがまるで違ってしまうので、非常に重要です!

またもう一点。
「観」と「見」の違い。
これ、今の日本語だと、両方「みる」ですよね。
違いがよく、、、わかりませんよね。

「いや、あれだろ?「観」はほら、じいっとみる。「見」は、、、なんとなくみる、ことだよ。そう、ぼおっとみる。」

こんな風に考える人もいるかもしれません。

これ、
「漢字」を日常的に使う日本人だからこそはまっちゃう落とし穴
なんだと思います。

すでにお気づきの方もいらっしゃるかと思いますが、
監修者は厳密に分けて発表しております。
「観」は「観察」。客観的に、分析的に「みる」。
対して、
「見」は「まみえる」。すなわち、「出会う」ということ。
ちゃんと、漢字の「見」にそういう意味があります。
「見える」と書けば、「まみえる」と読むんです!

これをふまえれば、経典の中に出て来る
「観仏」と「見仏」の違いが明確になります。
外から観察するのと、実際に出会うのでは、大違いなんです!

おバカなたとえですが、
映画で大スターの活躍を見るのと、実際に本人に会っちゃうのと、
テンションがめちゃくちゃ違うでしょ!!?

これもよく混同されてますので、要注意!
厳密に区別することで、行法的にも理解がまったく変わってきます。


お手数ですが、これらのことも踏まえて読んで頂ければ、より一層楽しんでいただけるかと思います。
本当はもっといろいろと解説したいのですが、また機会があればということで。
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