プラティエーカ・ブッダってなんだろう?  ~監修者より

文字数 1,002文字

「なんやわけのわからんことばいいだしよったで・・・」とかなんとか思われたかもしれませんが、前回の記事のなかの「縁覚」ということばをインド語で「プラティエーカ・ブッダ」と言います。
 …学生のころから、よく正体のつかめない言葉でした。wikiから引用しますね。

〉縁覚(えんがく、pratyekabuddha、paccekabuddha、サンスクリット:प्रत्येक बुद्ध)とは、仏教やジャイナ教において、師なくして独自にさとりを開いた人をいう。(中略)また独覚とも漢訳される。

…う~ん。みなさんはわかりましたか?
伝統的に、「声聞、縁覚はダメ!」みたいに、セットでダメだしされる立場なのですが、説明が少なすぎて(詳しいものを読んでみても)よくわからない…。

 おそらく、インドの文化全体を視野に入れずに仏教のフィルターを通した見方しかしていないこと、インドを離れた中国や日本のお坊さん(=周りに「縁覚」などいない環境下の人たち)がケンケンガクガクしてることが原因だとおもうのですが…。

 さて、ここからは私個人の推論です。
お釈迦さまの弟子たちは、実はかなりバラエティ豊かな面々でした。
ウルヴェーラ三兄弟たちは「火」をあがめる新興宗教の教祖様、目連と舎利弗のふたりは難しい議論の好きな哲学青年、マカカショウは世捨て人の夫婦でした。(「お釈迦さまのお弟子さまたちのことをひどく言うなんてけしからん!!」と仰る方にはすみません。でも、今挙げましたのは、みんな仏弟子になる以前の話なんです。)
「お坊さん」と言えば、つるつる頭でみんな一緒に思えますが、こうして見るといろんな社会的立場の人々が寄り集まっていたんです。
 お釈迦さま自身も、林の中で無茶な修行を続けるヨーガ行者のひとりだったわけです。最初の五人の出家した弟子たちも、その仲間でした。
 そういうヨーガ行者たちのなかで高い境地を得て、それを誰にも語らない聖者たちもおられたことでしょう。

 もうおわかり頂けましたか?
私の考える「縁覚」とは“何も教えてくれないヨーガの聖者”、対して「声聞」は“学問に傾きすぎの僧侶たち”。これぐらいの強いニュアンスで考えてみると、この両者を批判して「菩薩乗」を打ち立てた方々の鼻息が聞こえてくる想いがしませんか?

 さて、どうでしょう?みなさんのご意見・ご批判を戴ければ幸いです。
合掌。
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