「老いること」より

文字数 1,857文字

11「老いること」より

私は幾多の人生をとおして、〈家(個体)を作る者(妄執)〉を探し求めて、むなしくさすらってきた。ある人生、つぎの人生と、苦しみ深いことだった。
〈家を作る者〉よ、今、私はおまえの正体をはっきりと見た。
もはやおまえは家を作ることはできない。おまえの骨組みはすべて折れ、立派だった屋根も崩れ落ちた。
私の心は、〈(個体を)形作ること〉をやめる。〈(渇きに突き動かされるような)妄執〉を滅ぼしたのだ。





12「自分」より

自分を愛しいものと知るなら、丁寧に自己を守らなければならない。
賢者ならば、夜の三分の一だけでも、慎んで目覚めていなくてはならない。


まず自分を正しくととのえ、それから他人を教え導くようにすべきである。
そのようにする賢明な人は、わずらい悩むことがない。


自己こそ自分の主人である。一体ほかの誰が、自分の主人となりうるというのか。
自己をよくととのえたならば、得がたい主人を得たことになるのだ。


行ないの悪質な人は、実は仇敵が望むとおりの不幸を、自分の身に降りかからせている。
 ――茂った蔓草が宿主の木を覆い尽くし、枯らせて、やがて共に倒れてしまうように。


自分がなした悪事が自分を汚し、自分が悪事を思いとどまることで、自ら清められる。
清いのも清くないのも、自業自得なのだ。だれも、他人を清めることなどできない。





13「この世」より

“この世は泡沫(うたかた)のようだ”と見なしなさい。
“この世は陽炎(かげろう)のようだ”と見なしなさい。
このように、この世を見つめる人のことを
〈死者の王ヤマ〉は見ることができないのだ。


〈施しの心〉がない者は、神々の世界へと赴くことはない。
愚かな者たちは、人々に分かち与えることをよしとしない。
しかし心ある人は分かち合うことを喜ぶので、のちの世で幸福になることができる。





14「覚者」より

正しい覚りを開き
思念を凝らし
瞑想に専心して
〈覚者〉は“世間を離れた静寂”を楽しむ。
――その〈覚者〉の様子を、神々でさえも羨む。


あらゆる悪をなさず
限りなく善を行ない
自らの心を清めてゆく
――これが、もろもろの〈仏(覚者)〉たちに通じる教えである。


「〈辱めに耐え、怒りや劣情を忍ぶこと〉こそが最上の苦行である。
〈涅槃(完全に解き放たれた静寂の境地)〉こそ、こよなきものである」
と、もろもろの〈覚者〉たちは説かれる。
他人を害するのは〈出家をした者〉ではない。
他人を悩ませるのは〈道を行く人(修行者)〉ではない。


〈天上の快楽〉にさえ心奪われることのない〈覚者(=仏)〉の弟子は、
〈妄執〉が消滅してゆくのを楽しむのだ。


〈正しく目覚めたよき人(=仏)〉と、
〈その説き示す真理(=法)〉と、
〈それを遵守する賢者たち(=僧)〉とを信じ敬い従う人は、
とらわれのない智慧の眼でもって〈四つの尊い真理〉を見る。
――すなわち、
“あらゆる存在の苦しみ”と、
“〈存在の苦しみ〉の成り立ち”と、
“〈積み上がった苦しみ〉の滅びゆく姿”と、
“苦しみを終わりにするための〈八つの尊い道(八聖道)〉”である。





15「喜び」より

恨みを抱き合う人々のなかにあって、我々(出家者)は恨まずに生きていこう。
憎しみを抱き合う人々のなかにあって、我々は憎まずに暮らしていこう。


我々はただ一つのとらわれをも所有しない。
〈大いなる喜び〉のなかに生きる。
“語ることばが光となり、喜びの想いを食事とするという〈光音天の神々〉”のように、
我々も“喜びを食する者”となろうではないか。


“打ち負かして得る勝利”からは恨みが生まれる。負けた者は苦しみのた打つのだから。
“勝ち負けそのもの”を離れて〈平安な境地(=涅槃)〉へと入りゆく人は、安閑と安らぐことができる。


“心身ともに健康であること”こそは、最高の利得である。
“満ち足りていると知ること”こそは、この上ない宝物である。
“(何事にも)揺るがない信頼を持つこと”こそは、最高の親族である(生きてゆく上で非常に頼りとなるものとは、“すべてに信頼を持つ態度”という意味)。
〈涅槃(すべてのとらわれから解き放たれた静寂)〉こそは、この上ない喜びである。


孤独のなかの美味、“心の平静”を味わった者は、
恐れを離れ、(輪廻の業という)罪過も消えゆく ――真理の蜜を味わいながら。
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