「はた」の象徴性について ~監修者より
文字数 2,202文字
さて、「幢(はた)」ですが、ちょっとわかりにくいですよね?
一体、これをどう理解すればよいのでしょうか?
まずは、どういうものなのか、一度「寺 幡」で画像検索していただければと思います。
日本では木で作って、金箔を貼ったものが大半ですので、
「これのどこが“はた”なんだろう?」
と思われたかもしれません。
中国のものは、色鮮やかな布です。
→「中国 寺 幡」で検索ください。
布製のものは、布幢幡(ぬのどうばん)と言います。
法然院の本堂には、この布幢幡があります。
本堂内、阿弥陀様の左となりの赤い布のはたが、これです。(周囲は天女の水引があります)
正確には、一枚のものは「幡(ばん)」。
丸くなっているのが、「幢(どう)」(いわゆる“吹き流し”でしょうか)。
ですから、「幡」を組み合わせて作った「幢」が、「幢幡」なんでしょうね。
かわったところでは、石で作った「宝幢」と、
中国の国宝らしい「宝幢」もみつけました。
→(「中国 真珠舎利 宝幢」で検索ください)
さて、「はた」の象徴性について考えてみましょう。
普通は「旗」と書きますよね。
これは、戦争のとき、大将のいる場所に立てた行軍の「はたじるし」。
「幟(のぼり)」なんてものもありますよね。
つまりは、「ここに大将がいるぞ!」という目印。
“強い者がここにいるんだぞ”という、意志表示なんですね。
「大将」は人間ですが、「人間以上の存在がここにいる」という目印が、「はたじるし」だ、としたら、どうでしょう?
白川静氏によると、「遊ぶ」という字は本来「神遊び」で、“神霊が自由にさまようこと”だったそうです。
「遊」の字のなかの「子」、これが「人」で、“人が旗を持っている姿”に歩いてゆくことをあらわす“しんにょう”がついているのが、字の由来だそうです。
自分たちの一族の神の仰せの通りに、“ここに我らが神まします!”と旗を立てて歩いたのでしょうか。
“旗=神がここにいる。”
「はた」の象徴性とは、
神の乗り物である「雲」である、とも言われます。
我らが神を奉じて自由に歩き、他の神と力比べをして「遊ぶ」、つまり人々が「戦をする」。
どちらがより強い神か、を主張する第一こそが、「旗」。
行軍のための「旗」は、どちらかというと横長で、面積の広いものがよいのでしょう。
しかし、移動する必要がなければ?
そう、天へと突き上がる高さによって、より強大な神の威力を現わす、のです。
すなわち「幟(のぼり)」。
神社の祭礼で、高い幟を立てるでしょう?
「今日は我らが神様のお祭りだぞ!おらが神様は、これだけ威力のある神様なんだぞ!」
といった主張が、「幟」を天高くさせるのです。
(おそらく、こういった“強く主張する”ところから、「幢」は慢心を表わす向きもあるようです。二義的なものなのですが。
『地蔵歎偈』に「地蔵菩薩は、阿修羅たちの“慢心の幢”をおろさせる」とあります。)
チベットの仏教では、「タルチョ」と呼ばれる五色の旗が飾られます。
いわば、「仏様の威力を示している」。
先ほど、「はた」は「雲」を象徴する、と言いましたが、
実は「二つの方向の動き」をも示すのです。
すなわち、「天国におられる神様を地上に降ろすための乗り物」=「上から下」と、
「地上におられる神様が天国へと帰るための乗り物」=「下から上」。
尋常ならざる威力を持つものが地上へと吹き下ろされ、留まろうとする意志。その動きと、
尋常ならざる世界へと、天を突き上げて昇りつめてゆく、日常とは違う世界への上昇気流のような場。常にこちらがわをむこうがわへと引き込もうとするような、動き。
この、上下の双方向性の“動き”こそが、「はた」の持つ本質である。
「のぼり」の立つところには、人を越えた凄まじい威力を持った、神様や仏様がいらっしゃる。
それは、そのまま天上界から降りて来られたお姿であり、
またその場所は、天上界へと繋がる異空間である!
なんでしょう、今ですと「オーラ」と言ったり
もしくは“スモークたちこめてカラーの照明が後ろから照らしている”、みたいな。
なんせ
「はた」の立つところ、通常ではありえないようなパワーがみなぎっている
とでも理解しておいて頂ければ宜しいのではないか、と思います。
ただお寺の定番のお飾りなのではありません。
その本質まで遡って、しっかり理解しないと、その素晴らしさに感動できませんから。
というわけで、極楽の瑠璃の大地の底には、「宝の幢」があるのです。
これは
ただの大地ではない、
通常の世界を遥かに超えた力によって支えられている
ということを現わしているのだ、とすると、
案外理解できるのではないでしょうか。
透き通った瑠璃の大地の底は見えません。
透き通っているのに。
ただただ、巨大な「はた」によって支えられているのです。
それは、極楽の大地を支えるだけの力が、
地の底から湧き出し、
突き上げて来ていることのひとつの姿なのかもしれません。
また、極楽の威力をどこまでも行き渡らそうとする「御仏の意志」なのかもしれません。
それが、無数の宝よりできているのです。
それが、まばゆいばかりの光を放つのです。
すごい、イメージです!
そうだとは思いませんか?
一体、これをどう理解すればよいのでしょうか?
まずは、どういうものなのか、一度「寺 幡」で画像検索していただければと思います。
日本では木で作って、金箔を貼ったものが大半ですので、
「これのどこが“はた”なんだろう?」
と思われたかもしれません。
中国のものは、色鮮やかな布です。
→「中国 寺 幡」で検索ください。
布製のものは、布幢幡(ぬのどうばん)と言います。
法然院の本堂には、この布幢幡があります。
本堂内、阿弥陀様の左となりの赤い布のはたが、これです。(周囲は天女の水引があります)
正確には、一枚のものは「幡(ばん)」。
丸くなっているのが、「幢(どう)」(いわゆる“吹き流し”でしょうか)。
ですから、「幡」を組み合わせて作った「幢」が、「幢幡」なんでしょうね。
かわったところでは、石で作った「宝幢」と、
中国の国宝らしい「宝幢」もみつけました。
→(「中国 真珠舎利 宝幢」で検索ください)
さて、「はた」の象徴性について考えてみましょう。
普通は「旗」と書きますよね。
これは、戦争のとき、大将のいる場所に立てた行軍の「はたじるし」。
「幟(のぼり)」なんてものもありますよね。
つまりは、「ここに大将がいるぞ!」という目印。
“強い者がここにいるんだぞ”という、意志表示なんですね。
「大将」は人間ですが、「人間以上の存在がここにいる」という目印が、「はたじるし」だ、としたら、どうでしょう?
白川静氏によると、「遊ぶ」という字は本来「神遊び」で、“神霊が自由にさまようこと”だったそうです。
「遊」の字のなかの「子」、これが「人」で、“人が旗を持っている姿”に歩いてゆくことをあらわす“しんにょう”がついているのが、字の由来だそうです。
自分たちの一族の神の仰せの通りに、“ここに我らが神まします!”と旗を立てて歩いたのでしょうか。
“旗=神がここにいる。”
「はた」の象徴性とは、
神の乗り物である「雲」である、とも言われます。
我らが神を奉じて自由に歩き、他の神と力比べをして「遊ぶ」、つまり人々が「戦をする」。
どちらがより強い神か、を主張する第一こそが、「旗」。
行軍のための「旗」は、どちらかというと横長で、面積の広いものがよいのでしょう。
しかし、移動する必要がなければ?
そう、天へと突き上がる高さによって、より強大な神の威力を現わす、のです。
すなわち「幟(のぼり)」。
神社の祭礼で、高い幟を立てるでしょう?
「今日は我らが神様のお祭りだぞ!おらが神様は、これだけ威力のある神様なんだぞ!」
といった主張が、「幟」を天高くさせるのです。
(おそらく、こういった“強く主張する”ところから、「幢」は慢心を表わす向きもあるようです。二義的なものなのですが。
『地蔵歎偈』に「地蔵菩薩は、阿修羅たちの“慢心の幢”をおろさせる」とあります。)
チベットの仏教では、「タルチョ」と呼ばれる五色の旗が飾られます。
いわば、「仏様の威力を示している」。
先ほど、「はた」は「雲」を象徴する、と言いましたが、
実は「二つの方向の動き」をも示すのです。
すなわち、「天国におられる神様を地上に降ろすための乗り物」=「上から下」と、
「地上におられる神様が天国へと帰るための乗り物」=「下から上」。
尋常ならざる威力を持つものが地上へと吹き下ろされ、留まろうとする意志。その動きと、
尋常ならざる世界へと、天を突き上げて昇りつめてゆく、日常とは違う世界への上昇気流のような場。常にこちらがわをむこうがわへと引き込もうとするような、動き。
この、上下の双方向性の“動き”こそが、「はた」の持つ本質である。
「のぼり」の立つところには、人を越えた凄まじい威力を持った、神様や仏様がいらっしゃる。
それは、そのまま天上界から降りて来られたお姿であり、
またその場所は、天上界へと繋がる異空間である!
なんでしょう、今ですと「オーラ」と言ったり
もしくは“スモークたちこめてカラーの照明が後ろから照らしている”、みたいな。
なんせ
「はた」の立つところ、通常ではありえないようなパワーがみなぎっている
とでも理解しておいて頂ければ宜しいのではないか、と思います。
ただお寺の定番のお飾りなのではありません。
その本質まで遡って、しっかり理解しないと、その素晴らしさに感動できませんから。
というわけで、極楽の瑠璃の大地の底には、「宝の幢」があるのです。
これは
ただの大地ではない、
通常の世界を遥かに超えた力によって支えられている
ということを現わしているのだ、とすると、
案外理解できるのではないでしょうか。
透き通った瑠璃の大地の底は見えません。
透き通っているのに。
ただただ、巨大な「はた」によって支えられているのです。
それは、極楽の大地を支えるだけの力が、
地の底から湧き出し、
突き上げて来ていることのひとつの姿なのかもしれません。
また、極楽の威力をどこまでも行き渡らそうとする「御仏の意志」なのかもしれません。
それが、無数の宝よりできているのです。
それが、まばゆいばかりの光を放つのです。
すごい、イメージです!
そうだとは思いませんか?