今さらですが、華厳経の設定について…  ~監修者より

文字数 1,279文字

 …あの、今さらなんですが、
『華厳経』の基本設定について確認しておこうかな、なんて思ったりして。

まず「時」ですが、お釈迦さまが悟りを開かれて仏陀となられたすぐ後、です。
場所はもちろん、菩提樹の下。

しかし、ですよ。
最初から読まれた方はおわかりと思いますが、
“菩提樹の下に居ながらにして、順次、神々の世界へと上昇をしてゆく”
という、はなはだシュールな設定なのです。

いや、シュールな設定はゴマンと出て来ますがね…。

この経典のなかにはちゃんとは書いていませんが(少なくとも監修者はみつけられませんでした)、
この『華厳経』の物語は、悟りの直後ではなく、第二週目のこと、とされています。
これもゆえなきことではありませんで、
“お釈迦さまは悟りを開いてからの第一週は、菩提樹下に留まって、打ち滅ぼした煩悩をながめながら、悟りの歓びを味わい続けた。
 そしてその次の週から、菩提樹下を離れる「遍歴」をはじめた”
と、言われているからです。

 この場合、「遍歴」というのは、実際の肉体を動かして移動するのではなく、
自在な神通力で物質を越えた世界をたずねて回る、ということなのでしょう。

 また、もうひとつ大事なことを指摘しますと、
『華厳経』の話は、「初転法輪」の前、ということ。
つまり、お釈迦さまは、ただの一言も自分の口からは肉声を発しない、ということ。
だって、声を出して法を説いちゃったら、「初転法輪」が「初めて法輪を転ずる(お説法をする)」ことにならなくなっちゃいますもんね。
※ただし、二章ほど、うっかりお釈迦さまが菩薩の質問に答える箇所があります。
 『華厳経』の研究の大家であられる鎌田茂雄先生は、「経典作者が長大な経典の整合性を取り損ねた箇所がある(趣意)」とおっしゃられています。
まあ、早い話が何かのまちがい。

 それから、経典を読んでいて気付いたのですが、
よく世間で言われている
「『華厳経』の教主は釈迦牟尼仏ではなく、盧舍那仏である」
って、あれ、いったい何が根拠なんでしょうね?
だれか、偉いお坊さんがいいだしたのか、
それとも私の参照したのではない『華厳経』に載っているのかな?
今回、参照したいわゆる「六十華厳」では、
「盧舍那仏」という呼び名は、「お釈迦さまの別名」として出て来ますよ!
つまり「盧舍那仏」イコール「お釈迦さま」ということ!
それに『華厳経』自体が、「盧舍那仏」の説法などではなく、
「お釈迦さま」に出会えた菩薩たちが喜んで語りだす内容がつらつらと書かれている、ということ。
(もちろん、お釈迦さまからインスピレーションを受けて、みんなが語りだすので、常にお釈迦さま中心、お釈迦さまあっての『華厳経』であります。)

ステレオタイプな
「『華厳経』の教主は釈迦牟尼仏ではなく、盧舍那仏である」
っていう人たちは、自分で経典にきちんとあたったんだろうか?

これ、批判でも何でもなくって、
素直な感想です。

実際に、経典にあたる、というのは、
とってもいきいきとした、楽しいことですよ!
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