「ふたつのうた」より
文字数 1,563文字
1「ふたつのうた」より
心がすべてのみなもと。心を大切にして、心を用いるがよい。
心のなかに悪を念ずれば、言葉となり、行ないとなる。罪はみずからを追いかけて苦しめる。車がわだちをつけるように。
心がすべてのみなもと。心を大切にして、心を用いるがよい。
心のなかに善を念ずれば、言葉となり、行ないとなる。福はみずからに追いついて楽しませる。影が形にしたがうように。
「彼はわたしを罵った。わたしを傷つけ、わたしを負かせて、わたしのものを奪い取った」
この思いから離れない人は、恨みの止まることはない。
「彼はわたしを罵った。わたしを傷つけ、わたしを負かせて、わたしのものを奪い取った」
この思いから離れる人は、ながき恨みもついに止む。
この世においては、人を恨むことで、恨みがなくなることはない。
恨みを捨てることで、恨みはなくなるのである。これこそ、永遠の真理である。
「わたしたちは、やがてこの世で死ぬことになる」ということに、人々は気づかないでいる。
この事実を知れば、争いはなくなる。
悪事をなす者は、この世で苦しみ、のちの世でも苦しむ。二つのところで苦しむのだ。
「悪事をなした」と思って苦しみ、悪しき場所(=地獄など)に行って苦しむのだ。
善行をなす者は、この世で喜び、のちの世でも喜ぶ。二つのところで喜ぶのだ。
「よいことをした」と思って喜び、幸福の場所(=神々の世界)に行って喜ぶのだ。
*
2「なまけずに」より
思いを静めて研ぎ澄まし、忍耐強く、しっかりと励む者が、安らぎ(涅槃)に解き放たれる。
これこそが、無上の幸せ。
賢者の心とは、奮い立ち、励み、自制し、自己を克服して、激しい流れにも流されぬ“島”を作るもの。
“なまけること”に溺れてはいけない。愛欲に親しんではいけない。
思いを静めて、思念を築き上げて行く人が、大いなる幸福を得るのだ。
*
3「こころ」より
心は煩悩に汚されず、思いが乱されることもなく、善悪の想いさえ離れて――
目覚めた人には、一切の恐れがない。
*
4「花のかおり」より
「この身体こそは泡沫。本性こそは陽炎。」
このように悟るならば、とびかう花の矢のような、悪魔の誘惑を打ち破り、
死神のいないところへおもむくだろう。
花を夢中になって摘んでいる人は、
「もう充分、満足だ」と思わないうちに、死神に支配される。
蜜蜂は花の色や香りを損なわずに、蜜を集めて花から飛び去る。
聖なる修行者も、そのように村々を渡り行くのがよい。
他の人の過ちを見ていてはいけない。
他の人が行なった過ちを、行わなかった過ちを、見ていてはいけない。
ただ自分が行なったことと、怠ったこととを見つめるがいい。
栴檀や伽羅の香りは微かなもの。風に逆らうことも出来ない。
しかし徳行を修める人々の薫りは比類ないもの。天の神々のところまでも届くのだ。
徳行を身に修め、努めて日々を励み暮らし、正しい智慧を得て解脱した人々には、
悪魔は近づきようがない。
*
5「愚かな者」より
眠れない者には、夜は長い。
疲れている者には、一ヨージャナ(約7キロ、4.5キロなど諸説あり)の道も遠い。
正しい真理を知らない愚かな者にとって、生き死にの道のりは、長い。
旅する者(修行者)は、
自分より優れた人、あるいは自分に等しい人に出会わなかったのなら、
心をしっかりともって、一人で行くのがよい。
愚か者を旅の道連れとしてはならない。
悪事をなしても、その〈業(カルマ)〉は、
搾りたての牛乳のようにすぐには固まらない。
むしろその〈業〉は、
灰に覆われた炭火のように、じわじわと身を焦がしながら愚か者につきまとうのだ。
心がすべてのみなもと。心を大切にして、心を用いるがよい。
心のなかに悪を念ずれば、言葉となり、行ないとなる。罪はみずからを追いかけて苦しめる。車がわだちをつけるように。
心がすべてのみなもと。心を大切にして、心を用いるがよい。
心のなかに善を念ずれば、言葉となり、行ないとなる。福はみずからに追いついて楽しませる。影が形にしたがうように。
「彼はわたしを罵った。わたしを傷つけ、わたしを負かせて、わたしのものを奪い取った」
この思いから離れない人は、恨みの止まることはない。
「彼はわたしを罵った。わたしを傷つけ、わたしを負かせて、わたしのものを奪い取った」
この思いから離れる人は、ながき恨みもついに止む。
この世においては、人を恨むことで、恨みがなくなることはない。
恨みを捨てることで、恨みはなくなるのである。これこそ、永遠の真理である。
「わたしたちは、やがてこの世で死ぬことになる」ということに、人々は気づかないでいる。
この事実を知れば、争いはなくなる。
悪事をなす者は、この世で苦しみ、のちの世でも苦しむ。二つのところで苦しむのだ。
「悪事をなした」と思って苦しみ、悪しき場所(=地獄など)に行って苦しむのだ。
善行をなす者は、この世で喜び、のちの世でも喜ぶ。二つのところで喜ぶのだ。
「よいことをした」と思って喜び、幸福の場所(=神々の世界)に行って喜ぶのだ。
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2「なまけずに」より
思いを静めて研ぎ澄まし、忍耐強く、しっかりと励む者が、安らぎ(涅槃)に解き放たれる。
これこそが、無上の幸せ。
賢者の心とは、奮い立ち、励み、自制し、自己を克服して、激しい流れにも流されぬ“島”を作るもの。
“なまけること”に溺れてはいけない。愛欲に親しんではいけない。
思いを静めて、思念を築き上げて行く人が、大いなる幸福を得るのだ。
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3「こころ」より
心は煩悩に汚されず、思いが乱されることもなく、善悪の想いさえ離れて――
目覚めた人には、一切の恐れがない。
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4「花のかおり」より
「この身体こそは泡沫。本性こそは陽炎。」
このように悟るならば、とびかう花の矢のような、悪魔の誘惑を打ち破り、
死神のいないところへおもむくだろう。
花を夢中になって摘んでいる人は、
「もう充分、満足だ」と思わないうちに、死神に支配される。
蜜蜂は花の色や香りを損なわずに、蜜を集めて花から飛び去る。
聖なる修行者も、そのように村々を渡り行くのがよい。
他の人の過ちを見ていてはいけない。
他の人が行なった過ちを、行わなかった過ちを、見ていてはいけない。
ただ自分が行なったことと、怠ったこととを見つめるがいい。
栴檀や伽羅の香りは微かなもの。風に逆らうことも出来ない。
しかし徳行を修める人々の薫りは比類ないもの。天の神々のところまでも届くのだ。
徳行を身に修め、努めて日々を励み暮らし、正しい智慧を得て解脱した人々には、
悪魔は近づきようがない。
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5「愚かな者」より
眠れない者には、夜は長い。
疲れている者には、一ヨージャナ(約7キロ、4.5キロなど諸説あり)の道も遠い。
正しい真理を知らない愚かな者にとって、生き死にの道のりは、長い。
旅する者(修行者)は、
自分より優れた人、あるいは自分に等しい人に出会わなかったのなら、
心をしっかりともって、一人で行くのがよい。
愚か者を旅の道連れとしてはならない。
悪事をなしても、その〈業(カルマ)〉は、
搾りたての牛乳のようにすぐには固まらない。
むしろその〈業〉は、
灰に覆われた炭火のように、じわじわと身を焦がしながら愚か者につきまとうのだ。