第89話 母の味

文字数 1,113文字

ペントハウスに帰ると、翠さんがキッチンで何かを作っていた。

「あぁ! お帰り透子ちゃん!」

翠さんはボウルの中のクリーム状のものをゴムべらで練っていた。

「翠さん、何作ってるんですか?」

「これ、ティラミスや!
透子ちゃん、ティラミス好きやろ?
いつ元の世界に戻っても食べられるように後でレシピ教えるわ」

「えーー! 嬉しい!!」

あたしはパチパチと拍手をするように手を叩いて喜んだ。

「マスカルポーネチーズがあれば簡単やで」

「マスカルポーネチーズなんてあたしの時代に売ってるかな?」

「あぁ、せやな、スーパーにはないかもしれんなぁ。
まぁネットで取り寄せれば……」

そう言いかけて翠さんはハッとなり、

「そうや、ネットもあらへんやん!」

と自分で自分にツッコミを入れていた。

「まぁでも、マスカルポーネチーズ
見かけるようになったら即作りますよ!」

あたしは笑って言った。

四角いガラスの容器にコーヒーシロップを染み込ませたスポンジと、
マスカルポーネのクリームを重ねていく。

あたしは翠さんと台所に立ちながら、小学校の頃を思い出した。
あれはまだ両親が離婚する前だったっけ……。

母さんと台所でよく一緒にチーズケーキを作った。
それは市販のもので粉を牛乳で溶いて冷蔵庫で固めるだけの
チープなものだったが、あたしはそれが好きで
母さんもそれを作って食べる時はいつもニコニコしていた。

母さん……

「知らねーよ!!」

最後に母さんに投げかけた言葉。
あたしは母さんを悲しませたままこの時代に来てしまった……。

何だか目に涙が溢れて来て、ぽとっと一粒落ちた。

「透子ちゃん!?」

あたしの様子がおかしいのに気づいた翠さんがこちらを見た。

「すいません、なんか母さんの事思い出しちゃって」

翠さんは黙ってあたしの顔を見た後、言葉を続けた。

「透子ちゃん、体って正直なんよ。
心で思ってる事が出てまうんや。
怖い時はガタガタ震えるし、恥ずかしい時は顔が赤くなる。
涙が出る言うんは、心が動いたからなんやで」

翠さんは手元に目を戻し、作業を続けた。

「あたしもな、散々お母さんを泣かせてきたんやけど、
あの人、どんだけあたしが悪さしても、
怒りはしても決して見捨てんかったんよ。
それがわかるようになったんは、だいぶ大人になってからやけどな。
母親ってな、この世で最後まで自分の味方になってくれる人なんやで」

あたしは黙って頷いた。

「急がんでもええけどな、逃げたらあかんよ。
お母さんともいろいろあったんかもしれんけど、
涙が出る程の自分の心からは目をそらしたらあかん」

あたしはじっと翠さんの顔を見た。

「さぁ、あとは冷蔵庫で冷やして
食べる前にココアパウダーふれば完成や。
夕飯の後食べような」

そう言って翠さんはにっこりと笑った。

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