第71話 手羽一にて

文字数 1,995文字

あたし達がじっと立ち尽くしていると不可解に思ったのか、
橙子さんはこちらにちゃんと目を向け、
一瞬「あ」という様な表情を見せた。

しかし次の瞬間さっきまでのトーンに戻り、

「さぁ、どうぞ」

とあたし達を店内に招き入れた。

「いらっしゃい!」

カウンターの中には白髪混じりの作務衣姿の男の人がいて、
串に鶏肉を刺しているのが見えた。

心臓がドキドキと今にも破れそうだ。
思わずハットのつばを下に引き、顔を隠した。

間違いない、あの人が一茶だ……。

カウンターの席に通され、
あたしは膝の上の握りこぶしにグッと力を込めた。

「はい、お茶どうぞ」

橙子さんは湯飲みのお茶とおしぼりをあたし達の前に置いた。
マシロも黙り込んでいる。

「あんたら、この辺の子やないね?」

橙子さんが聞いた。

「あたしらも出身は別の土地なんやけどな、
長い事ここにおったら、
すっかり大阪のおばちゃんになってもうたわ」

と苦笑した。

「お、おすすめは何ですか?」

あたしは声を絞り出すように言った。

「この店のおすすめは手羽先の唐揚げや。
スパイスが効いてて一口目はみんな絶対むせるんやで」

橙子さんはそう言って笑った。

「あとは鳥南蛮定食か、焼き鳥とつくねの丼も人気やな」

一茶がカウンターの中から声をかけた。

「あ、それじゃあたしは手羽先唐揚げ定食で……」

「僕は鳥南蛮定食で……」

とあたし達はそれぞれオーダーをした。

「少し待っててな」

橙子さんはにっこり笑ってカウンターの中に入った。

一茶の店に橙子さんがいる……。
しかもこの二人、ずっと一緒にいたようだ。
カウンターの中で一茶の手伝いをする橙子さんは慣れた手つきで、
その連携プレーも見事だった。

あたしとマシロは料理が出来上がるまで一言も喋らなかった。

「はい、お待たせしました。
手羽先の唐揚げ定食。熱いから気ぃつけて食べてな」

あたしの前に定食のトレーが置かれた。

ミニサラダとお味噌汁、お漬物が添えられ、
メインの手羽先はこんがりと、そして艶のある飴色に揚がっていて、
そのビジュアルだけでなくスパイシーな香りも食欲をそそる。

あれだけ緊張していたあたしだったが、
思わず手羽先にかぶりついた。

「むほっ!」

スパイスがかなり効いていて、
橙子さんが言った通りあたしはむせた。

「な、むほってなるやろ?」

橙子さんは笑って言った。

「はい、でもこれすごく美味しい!」

パリパリした皮の食感と言い、甘辛スパイシーな味付けと言い、
やみつきになりそうな美味しさだった。

「この鳥南蛮のタルタルソースもめっちゃうまい……」

これまで口を閉ざしていたマシロも思わず感想が漏れたようだ。

ガチガチに緊張していて食べ物なんて喉を通るか心配していたが、
あたしもマシロもなんだかんだぺろっと完食してしまった。

「うまかったか?」

カウンターの中から一茶が聞いた。

「はい! とっても!」

あたしとマシロは声を揃えて言うと、一茶はにっこりと微笑んだ。
その笑顔は高校生の頃と変わらない。

「こんな若いお客さんが来るのも珍しいから、
おばちゃんいろいろサービスしたくなるわ」

そう言って橙子さんはあたしたちに
「お土産」と言ってお饅頭を手渡した。

こ、このお饅頭は……。

「これ、この人の地元の銘菓で
お義母さんがしょっちゅう送って来るんよ。
美味しいから食べて」

橙子さんは言った。

そのお饅頭は梓山の和菓子店の
母さんが好きだった栗蒸まんじゅう「秋の月」だった。

「ありがとうございます……」

あたしたちはそれを受け取った。

「それじゃ……」

いろいろ聞きたい事とかあったが、切り出せずにいた。
それはマシロも同じようだった。

結局そのまま支払いをし、席を立った。

「ありがとうございます」

一茶もそれ以上何も言わず、
カウンターの中からあたしたちを見送った。
引き戸を開けて外に出ると

「あの!」

と橙子さんがパタパタと後を追って外に出て来た。

そして

「いつか来ると思ってた」

と懐かしさと悲しみが混ざったような顔でマシロに向かって言った。

マシロは

「気づいてたんだ?」

と橙子さんに言うと橙子さんは静かに頷いた。

「ごめん、マシロ。
35年前、帰れる当てのない私はここで生きていく決心をした。
今の私はもう私だけじゃない。
守るものがいろいろあってもう過去の事には関われないの」

マシロは口を真一文字に結んだまま橙子さんの顔を見つめていた。

「大阪から京都に入る手前の山の中腹にウイスキーの工場があって、
その裏手に教会があるの。そこに行ってみて。
今の私はそこまでしか言えない」

橙子さんはそう言って心苦しそうにきゅっと目をつむった。

マシロも目をつぶり肩で大きく息を吸うと

「わかった」

とだけ答えて目を開いた。

「マシロ……」

あたしが声をかけると

「いいんだ」

とマシロは視線を横に向けた。

橙子さんは目に涙を溜めていたが、意志が揺らがないよう、
涙がこぼれるのをこらえているように見えた。

するとガラッと店の引き戸が開き、

「待ってくれ!」

と今度は一茶が外に出て来た。

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み