涙(1)
文字数 2,161文字
流風くんがいなくなってしまってから、数日後──。
海翔くんは夜勤明けにもかかわらず、朝から自分の部屋で曲作りに没頭していた。
「コーヒー淹れたよ……」
ドアのところから声をかけると、ソファで楽譜を見ていた海翔くんが眠たげな顔をあげる。
「ん……ありがと」
「疲れてるんでしょ? ちょっと仮眠したら?」
海翔くんのそばに行き、テーブルをおおう楽譜をよけてコーヒーを置く。
「バイト中に最高のフレーズ、思いついたんだ。それでいけるはずだったのに……。
あーあ……、なんで俺、録音するかメモっとくかしなかったんだっ」
やけになったように言って、海翔くんはテーブルに突っ伏した。
「海翔くん……」
──最近、いつもこんな感じだ。根をつめすぎじゃないのかな……。
わたしはトレイを抱えたまま、海翔くんの隣に腰を下ろした。
曲はもう、誰が聞いても完成といえるレベルだった。
だけど、海翔くんは自分の曲を認めていない。
──ハーヴは天才だと思ってたけど、きっとどの曲も苦心しながら作ってたんだろうな……。
それに比べてわたしは、ここまで作曲を突きつめたことはなかった気がする。
懸命に音と向かいあってはいたけれど……それでもどこか自分に甘かったのかもしれない。
──すごいな……海翔くんは。
目の前の海翔くんは疲れ果て、髪はボサボサ。
服にまで気がまわらないのか、このところ着古したシャツの上に
色あせたパーカーをはおった格好しか見たことがない。
──こんなふうになにもかも音楽に捧げられる海翔くんだから、ハーヴになれたんだ。
──そして……きっと今、あの曲が完成する……。
「……海翔くん」
テーブルにふせっている海翔くんの肩に手を置く。
「ん……?」
海翔くんがぼんやりと顔をこちらに向ける。
わたしはテーブルにある書きかけの楽譜を手に取り、海翔くんに見せる。
「この部分、ちょっと見て。歌詞を変えたとき、それに合わせてリズムも変えたでしょ?」
「ああ……うん……」
「だからだと思うんだけど、ここだけ全体の流れから少し浮いた感じがしない?」
「浮いた……? ……あっ!」
突然、海翔くんが身体を起こし、楽譜を引きよせる。
「そうか……。俺、ここがひっかかってたんだ。ってことは……」
海翔くんはひとり言をつぶやきながら、そばにあったギターを手に取った。
──なにかつかんでくれた。海翔くん、あと少しだよ……!
わたしは思わず胸の前で手をにぎり合わせた。
そして、いくつかの旋律を試すうち……
海翔くんの指は、ついにオルゴールのメロディを奏でた。
「これだ……できた……」
呆然とした海翔くんのつぶやきがこぼれる。
──ついに完成した……。
「……おめでとう、海翔くん」
「うん……ありがとう」
海翔くんのちょっと泣きだしそうな笑顔に、嬉しさが胸いっぱいに満ちた。
だけど、それと同時に心臓が激しく音を立てはじめる。
──わたしは……きっと消える……。
7年後の世界のものは、もうすべて消え去ってしまっていた。
ハーモニカやスマホだけじゃなく、バッグも、ペンも、なにもかも……。
──残ったのは、もうわたしだけ……。
「比呂、聞いてて。頭から弾いてみる」
「……うん」
うなずき、海翔くんが弾きはじめたメロディに耳をかたむける。
──そう、このメロディだ……。
間違いなくオルゴールと同じ旋律が、今、ギターの音色で流れている。
『……比呂ちゃんはもう迷子じゃないんだね』
あのときの流風くんの言葉の意味は、まだよくわかっていないけれど……わたしは迷いなく海翔くんのことだけを考えた。
そして、海翔くんの未来を開く大切な曲にたずさわれた。
──だから……もういいんだ。
「……おめでとう、海翔くん」
「は?」
海翔くんがキョトンとして、ギターを弾く手を止める。
「……ったく、何回おめでとうって言うつもりだよ? ただ曲ができたってだけなんだけど?」
そう言って、照れくさそうな笑みを浮かべる。
もう見られないかもしれないその笑顔に胸が締めつけられる。
──お別れだね、海翔くん……。
次の瞬間、わたしの頰を涙が伝った。
「比呂……?」
「海翔くん……っ」
戸惑う海翔くんに、わたしは力いっぱいしがみつく。
「な……なんだよ……?」
あせったように言った海翔くんだったけれど、
そろそろと手をまわし、わたしを腕の中に閉じこめる。
わたしは海翔くんの胸に顔を押しあて、泣きじゃくった。
「比呂……」
海翔くんが耳元に顔を寄せ優しい声でささやく。
「ありがとう……。比呂のおかげで曲ができたよ」
わたしが泣いている意味を海翔くんは勘違いしている。
だけど、その言葉がとても嬉しかった──。