思い出(2)
文字数 2,264文字
昼過ぎには、大方の作業は終わってしまった。
まだ細々とした片づけがあると言っても、ひとり暮らしの引越し。
やることなんて、さほど多くはない。
引越しの挨拶をしに、大家さんの部屋を訪ねようと1階へ下りたとき、いちばん端のドアが開いて初老の女性が出てきた。
──あ……大家さんだ。ちょうどよかった。
大家さんは買い物に行くらしく、手に蛍光色のエコバッグを下げている。
「あらっ、瀬口 さん。もう荷物は運び終わったの?」
「はい。これからよろしくお願いします」
「なにか困りごとがあれば、いつでもおっしゃってくださいね」
「困りごと……あ、部屋の鍵のことなんですが……」
「鍵? ああ、鍵ね。で、その後どうです?」
「やっぱり、開けにくいです」
部屋の鍵があまりにかたく、できれば入居までに交換してほしいと頼んでいた。
「そう、まだ開けにくい? きっと新品だから仕方ないんでしょう」
「新品……ですか?」
「ええ、前の人が出て行ったときに交換したばかり。
もう少ししたら、鍵も馴染んでくると思いますけど」
「……」
「瀬口さん? どうかされました?」
「新品じゃないような気がするんですが……」
じっと見つめると、大家さんが急にあわてだす。
「えっ! その、えーっと……」
そしてしばらく口ごもってから、気まずそうに話しはじめる。
「ごめんなさいねえ。じつは、瀬口さんの前に入居していた人のせいなの……」
「前の人……なにかしたんですか?」
「そう。部屋を引き払うときに、鍵を返してくれなかったのよ。しかもあの人、すぐに海外に行っちゃってそれっきり……。
だから、仕方なく合鍵を作ったってわけなんですよ。どうやら、その合鍵がうまくできてないみたいで」
「はあ……」
「あらあら、もうこんな時間。ちょっと急用があるので失礼しますよ」
大家さんは逃げるように行ってしまった。
──黙ってたら、知らんぷりするつもりだったんだ。
──でも、これ以上しつこく言ってもめるのもイヤだし……。
──交換はあきらめよう……。
ため息をつきながら、アパートの古い階段へ向かおうとしたとき。
──あ、忘れてた。郵便受けにネームプレート入れないと。
ふいに思い出し、階段の登り口のそばにある集合ポストの前へやって来た。
──瀬口……か。
デニムのポケットから取り出したネームプレートをつい眺めてしまう。
プレートに書いてある、『瀬口 』はわたしの新しい苗字だ。
──うーん……やっぱりまだ慣れないな。
子どもの頃に両親が離婚し、大学に入るまではお母さんとふたりで暮らしていた。
ところが先月、いきなりお母さんは再婚し、苗字が瀬口になった。
その流れで、わたしまで苗字を変えることになってしまったのだった。
──お母さん、せっかくだから比呂 も変えなさいって……。
──いったい、なにがせっかくなんだって感じもするけど。
それでもなにも言わずにお母さんの言うことをきいたのは、好き勝手な生活をしている後ろめたさのせいなんだろうなと思う。
──ま、別に急がなくてもいいか。
結局、わたしはネームプレートを、またポケットにしまい込んだ。
※ ※ ※
翌朝──
東京へ帰る麻美を駅まで送ろうとしたけれど、アパートの階段を降りるなり、もうここでいいと言われてしまう。
「なんで? 一緒に行ったらダメ?」
「少し寝たら? 飲んでしゃべって、ほとんど徹夜なんだからさ」
「それは麻美もだよね?」
「だから眠くてたまんない。もう、ぜーったい新幹線で爆睡する。……じゃ、元気でね」
麻美は笑顔で手をあげ、行こうとした。
だけど──
「比呂」
すぐに立ち止まり、振りかえる。
そして、こらえきれずに、という感じで言う。
「歌は……まだムリなの? もう、歌わないつもり?」
明け方までずっとしゃべっていたのに、麻美は今、はじめてそのことを口にした。
「……だって、ワンフレーズも歌えないんだから仕方ないよ。
でもね、わたし、なんにも困ってない。
結局、歌うかどうかなんて、生活してくのにまったく関係ないんだなあって。
うん、ホント、実感」
言いわけでもするみたいに、つい一気に言ってしまう。
しばらくのあいだ、麻美がわたしを見つめる。
「……そっか」
「うん……」
「わかった」
麻美は微かな笑顔でうなずいたあと、駅のほうへと歩きだした。
──バイバイ、麻美。
もう麻美は見ていないけれど、胸の前で小さく手を振る。
──今まで、本当にありがとう……。
アパートの前に立ったまま、遠ざかる麻美の背中を最後まで見送った。
※ ※ ※
部屋にもどり、東側の窓を開けてみる。
2階からの景色はのどかで、近所の子どもの笑い声やテレビの音がどこからともなく聞こえている。
──なんだか、ここに来る前とは別世界だな。
とても環境がいいとは言えない、都会の騒音のど真ん中にいるような部屋で寝起きして、バイトと歌のレッスンに明け暮れていた日々を思い出す。
わたしの夢は、シンガーソングライターになることだった。
まだ細々とした片づけがあると言っても、ひとり暮らしの引越し。
やることなんて、さほど多くはない。
引越しの挨拶をしに、大家さんの部屋を訪ねようと1階へ下りたとき、いちばん端のドアが開いて初老の女性が出てきた。
──あ……大家さんだ。ちょうどよかった。
大家さんは買い物に行くらしく、手に蛍光色のエコバッグを下げている。
「あらっ、
「はい。これからよろしくお願いします」
「なにか困りごとがあれば、いつでもおっしゃってくださいね」
「困りごと……あ、部屋の鍵のことなんですが……」
「鍵? ああ、鍵ね。で、その後どうです?」
「やっぱり、開けにくいです」
部屋の鍵があまりにかたく、できれば入居までに交換してほしいと頼んでいた。
「そう、まだ開けにくい? きっと新品だから仕方ないんでしょう」
「新品……ですか?」
「ええ、前の人が出て行ったときに交換したばかり。
もう少ししたら、鍵も馴染んでくると思いますけど」
「……」
「瀬口さん? どうかされました?」
「新品じゃないような気がするんですが……」
じっと見つめると、大家さんが急にあわてだす。
「えっ! その、えーっと……」
そしてしばらく口ごもってから、気まずそうに話しはじめる。
「ごめんなさいねえ。じつは、瀬口さんの前に入居していた人のせいなの……」
「前の人……なにかしたんですか?」
「そう。部屋を引き払うときに、鍵を返してくれなかったのよ。しかもあの人、すぐに海外に行っちゃってそれっきり……。
だから、仕方なく合鍵を作ったってわけなんですよ。どうやら、その合鍵がうまくできてないみたいで」
「はあ……」
「あらあら、もうこんな時間。ちょっと急用があるので失礼しますよ」
大家さんは逃げるように行ってしまった。
──黙ってたら、知らんぷりするつもりだったんだ。
──でも、これ以上しつこく言ってもめるのもイヤだし……。
──交換はあきらめよう……。
ため息をつきながら、アパートの古い階段へ向かおうとしたとき。
──あ、忘れてた。郵便受けにネームプレート入れないと。
ふいに思い出し、階段の登り口のそばにある集合ポストの前へやって来た。
──瀬口……か。
デニムのポケットから取り出したネームプレートをつい眺めてしまう。
プレートに書いてある、『
──うーん……やっぱりまだ慣れないな。
子どもの頃に両親が離婚し、大学に入るまではお母さんとふたりで暮らしていた。
ところが先月、いきなりお母さんは再婚し、苗字が瀬口になった。
その流れで、わたしまで苗字を変えることになってしまったのだった。
──お母さん、せっかくだから
──いったい、なにがせっかくなんだって感じもするけど。
それでもなにも言わずにお母さんの言うことをきいたのは、好き勝手な生活をしている後ろめたさのせいなんだろうなと思う。
──ま、別に急がなくてもいいか。
結局、わたしはネームプレートを、またポケットにしまい込んだ。
※ ※ ※
翌朝──
東京へ帰る麻美を駅まで送ろうとしたけれど、アパートの階段を降りるなり、もうここでいいと言われてしまう。
「なんで? 一緒に行ったらダメ?」
「少し寝たら? 飲んでしゃべって、ほとんど徹夜なんだからさ」
「それは麻美もだよね?」
「だから眠くてたまんない。もう、ぜーったい新幹線で爆睡する。……じゃ、元気でね」
麻美は笑顔で手をあげ、行こうとした。
だけど──
「比呂」
すぐに立ち止まり、振りかえる。
そして、こらえきれずに、という感じで言う。
「歌は……まだムリなの? もう、歌わないつもり?」
明け方までずっとしゃべっていたのに、麻美は今、はじめてそのことを口にした。
「……だって、ワンフレーズも歌えないんだから仕方ないよ。
でもね、わたし、なんにも困ってない。
結局、歌うかどうかなんて、生活してくのにまったく関係ないんだなあって。
うん、ホント、実感」
言いわけでもするみたいに、つい一気に言ってしまう。
しばらくのあいだ、麻美がわたしを見つめる。
「……そっか」
「うん……」
「わかった」
麻美は微かな笑顔でうなずいたあと、駅のほうへと歩きだした。
──バイバイ、麻美。
もう麻美は見ていないけれど、胸の前で小さく手を振る。
──今まで、本当にありがとう……。
アパートの前に立ったまま、遠ざかる麻美の背中を最後まで見送った。
※ ※ ※
部屋にもどり、東側の窓を開けてみる。
2階からの景色はのどかで、近所の子どもの笑い声やテレビの音がどこからともなく聞こえている。
──なんだか、ここに来る前とは別世界だな。
とても環境がいいとは言えない、都会の騒音のど真ん中にいるような部屋で寝起きして、バイトと歌のレッスンに明け暮れていた日々を思い出す。
わたしの夢は、シンガーソングライターになることだった。