思い出(1)
文字数 1,849文字
玄関のドアを開けると、白いキャニスターを持った
「これ、キッチンで使うんだよね?」
「うん。流し台の辺りに置いといて」
「りょーかい」
麻美はわたしの引越しを手伝うために、わざわざ仕事を休んで東京から夜行バスでかけつけていた。
「テキトーにやってるからね。気に入らなかったらあとで直して」
ダンボールから出された小物が、きれいにネイルされた手で、次々と部屋に置かれていく。
──ここは麻美にまかせて、わたしは居間をなんとかしようかな。
築30年、2DKのアパートは、東京で暮らしていたワンルームよりかなり年季が入っている。
ただ家賃と広さを考えれば、そう悪い物件ではないのかもしれない。
「ホント、荷物少ないなあ。ムダなもんがないっていうか……」
麻美が部屋を見まわして言う。
「いっぱい捨ててきたからね」
わたしは窓にカーテンを取りつけながら言った。
ここに来る前、いろんなものを捨ててきた。
思い出のあるものを、とくに。
たとえば、昔、彼氏だった人がくれたピアスだとか。
東京の音楽スクールに通っていたときに、仲間と作ったおそろいのTシャツだとか。
自分を励ます気恥ずかしい言葉を書きつらねた日記だとか。
ホントに数えきれないくらい、たくさん捨ててきた。
どうしても、過去のわたしを思い出すようなものを、新しい土地には持ちこみたくはなかったから……。
「……まあ、
麻美が部屋の低い天井を見あげながら口を開く。
「20代も後半。ここらでちょっと休憩したいよねえ」
わたしが東京を出た本当の理由に感づいているはずなのに、麻美は素知らぬ顔でそんなことを言う。
だからわたしも、
「まあね」
とだけ返す。
18で入った音楽スクールのシンガーソングライター科で出会った麻美とは、
かれこれ8年の付きあいになる。
同い年で音楽の趣味も合ったわたしたちはすぐに意気投合し、青くさい将来の夢なんかを
だけど麻美は入学から半年もたたないうちに、さっさとシンガーソングライターの道に見切りをつけ、今ではネイルサロンの店長をしている。
いっぽうわたしは芽が出ない音楽にいつまでもしがみついて、ずるずると何年もムダに過ごしてしまった。
今頃になってそのことに気づき、そしてあきれた。
もう、これまでとは違う生活をはじめるしかないんだと、ようやくわかった。
だから、住むのはどこでもよかった。
これまでとは違う生活ができるのなら、どこでも。
そんなわたしがネットで適当に選んだのは、東京からはるか離れたこの街だった。
田舎と言うほどではないにしても、とても都会とは言えない、なんとも中途半端な場所だった。
「マグカップは1個。カラトリーもほとんどひとり分だけ……。わざわざ休みとってきたのに、これじゃあ手伝う甲斐もないよ」
麻美は明るい栗色の髪を揺らし、ため息まじりに笑う。
「まあまあ、そう言わずに。海の見えるリゾートに遊びに来たと思ってよ」
「リゾート? あ、ここって海が近いんだっけ?」
「うん」
どこに住んだってかまわない。
そう思ったとき、ふと海が身近な場所に1度くらい住んでみようという気になったのだった。
「部屋から見えるの? ここって2階だし」
「それはムリ。でも自転車、30分もこげば海に出るらしいよ」
「ウソ、結構な距離じゃない。……あれ? 比呂って自転車持ってたっけ?」
「ないけど」
「じゃあ、ダメじゃん」
「引越し祝いに買って」
「ヤダよ。比呂に買ってあげるくらいなら、自分の買い換える」
「泥よけのとこに、『麻美様より贈呈』って書くから」
「よけいにヤダ」
軽い調子でやり取りしながら、一緒に作業を続ける。
この優しい親友も、明日には東京へ帰ってしまう。
そして、わたしは本当にひとりぼっちになる。
自分で決めたことなのに、ちらっと心細さが胸をよぎる。
──ひとり……か。
明日から……
この見知らぬ街で、ひとりきりの生活がはじまる──
今さらながら、そう思った。