ピアノ(1)

文字数 1,571文字

 「ごちそーさん。じゃ、俺、バイトまで部屋にいるわ」

「あ、海翔くんっ! ちょっと話──」



──行っちゃった……。



海翔くんは、今日も曲作りのことで頭がいっぱいらしい。

朝食をあっという間に平らげると、すぐに自分の部屋へもどってしまった。



──困った。海翔くんに話しかける隙がない。

──いったい、いつ言えばいいんだろう……。

──一緒に活動することなんてムリだって……。








朝食の片づけを済ませたあと、掃除をしに客間へやって来た。



──今日はお手伝いさんがいない日だから忙しいな。



窓を拭きながら、今日の仕事の段取りを考える。



──お醤油が減ってたっけ。買い物も早めに行こう。

──このところ、子ども向きのメニューが多かったから、今日はマサミチさんが好きそうなものにしようかな。

──魚料理がいいよね。白身魚なら、美雨ちゃんもよく食べてくれるし……。



そのとき、ふとグランドピアノが目につく。



──……ちょっとだけ、弾かせてもらおう。



ゴシゴシと手をエプロンで拭き、そっと鍵盤の蓋を開けてみる。



──ずいぶん長い間、ピアノにさわってなかったな……。



白鍵をひとつ叩くと、ポーンと柔らかい音がした。



──きれいな音……。



伸びのある明るい響きを聴き、なんだか久しぶりに歌いたくなってくる。

わたしは椅子に座り鍵盤に向かうと、自分でもお気に入りのオリジナル曲を弾きはじめた。



声はレッスンに明け暮れていた頃みたいに、ピアノとすぐにひとつになれた。

ピアノと自分の声だけに心を向ける。

そんなことは、もう二度と叶わないと思っていた。




──久しぶりだな。ホントに楽しい……!




わたしはピアノの音に包まれながら、歌を歌える幸せにひたっていた──。



   ※   ※   ※



曲が終わったとき、ふいに後ろから拍手が聞こえる。



──えっ……!?



ドキッとして見ると、海翔くんがドアのところにもたれて立っていた。



「かっ、海翔くん。バイトに行くんじゃなかったの?」

「これから行くけど、ピアノの音がしたから。で、それオリジナル?」

「う、うん……」


──聴かれてるなんて思ってなかった……。



無心に歌っていたことが恥ずかしく、うつむいたまま鍵盤の蓋を閉じる。



「……いいな、比呂の歌」

「そんな……お世辞なんかやめてよ。スクールにいた頃だって、誰の目にもとまらなかったんだから……」

「いや、素質あるよ。まだ荒削りだけど」

「荒……」


──こんな年下の子に上から目線で言われるとは……。

──これでも結構、レッスン積んできたのにな……。



ちょっと萎えそうになりながら立ちあがる。



「海翔くん、もうバイトの時間じゃないの? そろそろ出たほうが──」

「決めた」



急に海翔くんが言う。



「決めた……って?」

「俺、来月締切りのオーディションに応募する」

「オーディション……?」

「バンドで出ようと思ってたんだけどさ……ま、今となっちゃそれはどうでもいいや。曲完成させて、比呂と出ることにする。

そして、グランプリ獲って……プロになる」

「なっ!? 海翔くん!? どうしてそうなるの!? まだ歌を一緒にやるかどうかも決まってないのに!」



とんでもない思いつきに、すっかりうろたえる。



「ん? そうだっけ……。まあ、いいじゃん」

「よくないよ! 海翔くん、なにもわかってない!」



自分でもびっくりするくらい大きな声で言った。

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